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15歳 ・揺れ動く青春時代
1995年の阪神淡路大震災後に、祖母を呼び寄せ半年間同居生活がありました。
厳しかった祖父とにて、ある種エリート意識の強かった祖母は、私たち(父・母・兄・私)とうまくいきませんでした。
「なんであなた達は〇〇(父の名前)の子供なのにこんななの?兄は大学は2浪して入るし、あなたは障碍者だし」
さらに母のことも父のことを理解していないという発言もあり、わたしたち家族が父の人生の足カセ的なことをよく言われていました。
そういった祖母の態度もあり、同居生活は短い期間で解消しました。
いまおもえば、祖父がいないさみしさとわたしを介護する上での大変さが重なりあって、そういった発言になってしまったのではないかとおもいます。
あくまでもいい風に考えればという話で、当時はダイレクトに言葉は刺さってきますから、うまく共同生活することは出来ませんでした。
そういった中で
中学3年になった4月に、あと1年で世の中にでないといけないかもしれない、高等部に進学できないかもしれないという不安な気持ちから
当時インターネットのプロバイダとして使っていたダイヤルQ2の別チャンネルのツーショットダイヤルにはまり、
同世代だという男女含めて様々な人と三か月ぐらいにわたり、毎日のように2,3時間電話しており、
高額な請求の電話代が続くので母親に問い詰められ、泣きながら将来の不安を言ったこともありました。
そこから残りの9か月は固定電話も子機も私の手の届かないところにおかれ、一切友人と連絡が取れなくなりました。
馬鹿げた話ですが、将来の不安やなんでも話せる友達がいないというところから、そういうことにはまってしまったのではないかなと思っています。
今思えば話していたのも同世代ではなく、サクラの男性女性だったのだろうなと思います。
高校からは義務教育でないということで、私を含め両親とともに学校側と面談を行った時、
このままでは高校に入ってからの三年間は授業を出席扱いできない授業が増えてくるとおもわれるので、
出席日数が足らず卒業できないという可能性があるのでどうされますか?
という話になり、家族で何度も話し合いましたが、家族全員反対でしたが最終的に卒業できなくなるのはまずいので、
泣く泣く電動車いすを利用して教科ごとの教室移動をし、自力で歩くことをあきらめた生活がスタートしました。
この時に自分で悩み始めたことがありました。
「あと三年で学校を卒業して社会に出たときに自分は社会の役に立つのだろうか?」
自分がこの世に生を受けた意味はなんなのだろうかということを考えて、なかなか結論をだせず自問自答を繰り返していく中で、自暴自棄的な考えをしてしまうときも多々ありました。
なぜ自暴自棄な考え方になるかというと、当時の私は家族と自分を比べてしまい
何事も人の手を借りないとできない自分というのは、家族にとって邪魔な存在でしかないのではないかと言う風に思っており、
ずっと考えていて、そのことを考えるのに疲れるたび、
いっそのことこの世からいなくなってしまえば楽になるのかなとおもっていました。
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