14歳・1995年1月17日・大震災
1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災。
その前々日に
私に早く家を出ていけといった祖父が九州の小倉で亡くなりました。
明け方に電話がなり、父方の祖父が亡くなったので通夜と告別式をするので手伝いに来なさいと、何十年ぶりかに父の兄弟たちから連絡がありました。
急遽両親が話し合い、兄も交えて話した結果、わたしの面倒は誰も見れないし、近くに頼める人もいないので母の実家である大阪に3日ほどあずけて、あとの家族はみんなで手伝いにいこうという話にまとまりました。
(母方のおじいちゃんおばあちゃんは私に非常に優しくしてくれました)
そして各々様々な所に連絡し、夜になり終電の新幹線で大阪に向かい翌朝の事でした。
母の実家である大阪は春夏冬と学校が休みになるたびにかえっていたので、母の実家でくらすのは慣れていました。(といってもバリアフリーではありませんでしたが)
大阪について夜に宿題をやって、いつも自分が寝るところは仏間だったのですが、ふすまを挟んで隣の部屋にこたつがあり、そこではおばあちゃんがねていました。
左右の両端に三段重ねを二段重ね、六段になっている状態のタンスがありました。
自分の足元には背丈より高い観音開きの洋服入れがありました。
そこには隙間があり、いつもは宿題をするときに使っていたテーブルをしまっていました。
その時は遅かったのもあり、いつもならしまうテーブルを足元にひろげたまま、そのまま布団をひいて寝ていました。
そして明け方、5時45分少し前
ものすごく大きな破裂音がして隣にねていた母方のおじいちゃんとおばあちゃんもそれで飛び起き、今の音なに?といった次の瞬間、今度はゴゴゴとすごい揺れがやってきました。
その時にタンスが倒れてきました。
揺れが始まった時に動こうとしたのですが、金縛りにあったように動けず、タンスはわたしのほうに倒れてきて、いろいろなものが落ちてきた瞬間に目の前が暗くなりました。
おじいちゃんがわたしの身体に覆いかぶさったのです。
後におじいちゃんがいったことには、
タンスが全部倒れてきていたら助けられなかった、足元にテーブルがあったからタンスが全部倒れずに助ける時間が出来たとのことでした。
揺れがおさまって隣の部屋をみたら、3段重ねの大きなタンスがこたつの上ギリギリにあって、もうちょっとでおばあちゃんの上に崩れるところでした。こたつがなければ圧死していたそうです。
テレビは壊れガラスも散乱し、出てはいけないといわれたので数時間布団の中でじっとしていました。
いつもなら同じマンションの隣の家の親戚にベランダ伝いに四つ這いで行けたのですが、プランターやら窓ガラスやらが散乱し、とても入ってはいけない状態でした。
13階建ての8階にあり、エレベーターも止まっている状態でしたが、多くの人は避難所に避難し、
おばあちゃん達が避難所に様子を見にいくことになりました。数時間たち戻ってきて
「ここにいましょう」
ということになったのです。
どうしてかというと
避難所までは車イスで入れるけれど、避難所は大勢の人がごった返しており、障碍者用のトイレも使用を断られているという状態で、自宅で待機していたほうが良いということになったのです。
そこからは徐々に家の片付けなどをしながら、隣の親戚のおじさんのコレクションであるワインやおばさんのはちみつ漬け、みそ、ぬか床などのガラス製の器がすべて割れており、床にはワインか味噌かわからないほどぐちゃくちゃでした。
おばあちゃんの家では冷蔵庫には品物がパンパンに入っていたのですが、冷蔵庫が部屋の真ん中に動いていて中身が空っぽになっている状態にもなっていました。
その光景をみて地震の揺れの力ってすごいなと思いました。
告別式の予定で九州の小倉に3日間の予定でいった父親達とは連絡が一週間取れず、電話してもずっと話し中になっていました。
のちのち母親に聞いたところこちらもかけていたのだがつながらなくて心配していたとのことでした。
わたしがあずけられていたおばあちゃんの家はまわりはそれほど壊れていませんでしたが、電車がまったく動いておらず、
結果として東京に帰って学校に通学できたのは地震発生から1か月後でした。
テレビが壊れたので小さいテレビを買ってニュース映像をみると、あまりに災害の規模が大きく、自分たちの家もかなり家の中がぐちゃぐちゃになってしまったけれど、まだ被害がすくなかったほうなんだなと思いました。
帰ってきて登校したときに恥ずかしかったのが、生還したヒーロー扱いになっていて、全校生徒の前で
「カネゴンさんが帰ってきました!」
と挨拶し、学校の広報誌にはわたしの被災した体験談がのりましたし、帰ってきてから一週間後、お昼休みを使って震災のはなしを講義してくれといわれて、小学生から高校生までのクラスを回りました。
話せば話すほどもっとしっかり震災を体験していればよかった、骨の一本でも折っておけばよかったかなと思うほど、
わたしの体験はみんなが期待しているほどの大きさではなかったのでプレッシャーにも感じていました。
ずっといっていたのは先生達や皆さんは意外におもうかもしれませんが、今のままの避難訓練ではなんの意味もないということを言っていました。
いわゆるとりあえず教室からでて、先生の指示にしたがって体育館に移動するというようなマニュアル通りの行動はとっさの時にはなんにもできなくなるということを伝えました。
わたしが先生達に提案したのは避難訓練には
「あえてバリアをおいてください、車イスが通りにくい道をあえて作ってください、危険な状態を作って避難訓練をしましょう」
ということで提案しましたが、それはスムーズな避難訓練をするために実現しませんでした。
地震のつながりですが、2011年の東日本大震災の時にも改めておもいましたが、地域の人達との近所づきあい、近所の広域避難場所までの道筋など理解を深めておいた方が良いということも感じました。
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