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車イスでの怖い話
今から思うと少し笑えるのですが、怖い経験をしたお話したいと思います。
高校二年の春より将来を見据えて電動車椅子での外出を始めていました。
最初は学校の校内だけでしたが、高校卒業するころには電動車いすに乗って出かけることに慣れて、学校が終わってからまっすぐ帰れば17時半に確実に帰れるところ、いつも21時22時まで出かけていました。
そういったなかでいろいろな経験をしました。
1・池袋でチンピラに絡まれる
まず一つ怖かったのは、池袋でチンピラに絡まれたということです。サンシャイン60通りを普通に電動車いすで走って、基本は歩道を歩いていましたが、歩道の幅が狭かったり放置自転車等で幅が狭くなっている場合は道路にでて走行していました。
そうしたときに黒塗りの車の横をすり抜けたとき、うしろから
「おぅワレ!なにしてくれとんじゃぁ!」
と声がし、振り向くとガラの悪いチンピラのお兄さんたちがゾロゾロと2,3人車から降りてきました。そしてなんでしょうかと声を返したところ
「車みてみい!」
といわれ車のところに連れていかれたのですが、なにかで擦ったような傷をみせられ、
「このキズはお前が通った時に作ったキズだ。弁償代はらえ、これじゃ俺が兄貴からどやされるから、いまある有り金全部おいていけ、あとは住所と名前おしえろ、あとで請求書をおくる」
ですが、お兄さんたちがいうキズはわたしの車いすでは到底つけられない高さにあるように見えたので
「払いたくありません、このキズはわたしがつけたキズではありません」
といっていると、だんだんお兄さんたちはすごんできて、胸ぐらをつかんできました。それと声が大きくなっていったせいか、まわりの人たちがたくさんあつまり、気が付くと車を取り囲むような形で4,50人の人だかりができていました。
その中の2,3人がわたしの前にでて、
「私たちが壁になるからその間に後ろからそっと逃げていきな」
といわれてその人たちの言葉にあまえて、その人たちがお兄さんと話しているあいだに、後ろの人たちが道をあけてくれ、お兄さんたちにみつからないようにそっと後ろから人だかりをぬけて、無事に帰路につくことができました。
それから2年くらいは池袋にいくのがこわいなとおもっていました。車の横をとおるときはより一層気を付けようと意識するようになりました。
2・駅でよく絡まれる
当時は今ほど駅にエレベーターやスロープが設置されていなかったので、どうしても駅員さんの力をかりなければ電車の乗り降りができないところが多かったのです。
そのため駅員さんのいる改札のところでどこどこに行きたいので連絡をお願いしますというようなことで窓口で話していたりすると、良く後ろから
「なにやってんだおせえんだよ、さっさとうごけよ、コノヤロー」
と、窓口や券売機の後ろからずっとわたしが移動するまで、わたしの車いすを蹴ってきたり、鞄をぶつけてきたり、頭を小突いてきたりされたことが多かったです。
そうかと思えば駅員さんと話していたり切符を買っているとなにもいわないのに手伝ってきて、ありがとうございましたと会釈をし、別れた後もずっと後ろをついてきたりするので、なんでしょうかと伺うと
「さっき助けてやったんだから、なにかお礼をしろよ」
といわれたりお金を払えといわれたりすることも多々ありました。
3・駅のエレベーターから転落する
バリアフリーが整っていないながらも一部バリアフリー機能があるエスカレーターなどはあったのですが、それを扱うのに駅員さんが時間がかかり、一般の方からエスカレーターが使えない時間がながい、エスカレーターを使わせろという不満の声が多かったために、あまり駅員さんがその機能をつかって案内する事は少なくなっていっていました。
そんななか、エスカレーターを逆運転させ駅員さんが支えるだけで、後ろ向きに降りるというやり方で案内するというのが、駅員さんの中で定着しており、わたしも不安を抱えながら日々そういった形で利用していました。
そしてある時、どうみても非力な年配の駅員さんが来たので
「待ちますので若い駅員さんを呼んできてください、お願いします。」
といったところ
「大丈夫です!わたしは何百回もこれをやっているので!安心してください!」
といわれ、とても怖いなとおもいながらも任せるしかありませんでした。そしてエスカレーターを逆転させ、降り始めたその時です。
「わっ!重い!!」
と、スッと避けられエスカレーターの真上から見事にくるくるくるくるとまわりながら真下まで落ちていきました。
その時に初めて、あ、テレビの再現ドラマと一緒だ、本当に危ないときはスローモーションに見えるというのは本当なんだなと思いました。
落ちたあと周りを見ると駅員さんはおらず、まわりの人たちが起こし上げ、ベコベコになった車イスにのせてはじに寄せてもらい、急ぎ母に連絡をし、家にあった手動車いすを持ってきてもらったときに、ことの経緯を説明したところ、母が憤慨し、すぐに駅長室に文句をいいましたが、その場ではその駅員は見つからず、やりばのない怒りをもちながら車で帰りました。
そして車イス業者に電話し、駅のどこどこにおいてあるから回収してくれと連絡しました。そして夜になり父が帰宅し、母がすべての経緯を話したところわたしが見た中で一番すごく父が怒っており、いままで見た中でいちばんびっくりするほどでした。
それから1週間後くらいしてから、助役と駅長と本人が家に謝罪に来ましたが、駅側の非を完全には認めず、わたしがエスカレーターによる案内を強く希望したために起こってしまったやむを得ない事故だといわれ、車イスの修理代を払ってもらったり、お見舞金等などは一切支払われませんでした。
4・また駅でエスカレーターでトラブル
それから1年後くらい経った時に、同じところで別の軽い事故にあいました。
それはなにかというと、上記に記したように案内されていたときにその時は転げ落ちはしなかったのですが、エスカレーターから降りるときにステップがエスカレーターにまきこまれ、車イスの前輪にめり込む形に変形をしてしまいました。
これでは走行ができずにどうしようかとおもいながらその場にいた駅員さんに謝罪と修理をもとめてもめていたところ、通りがかった鉄道の修理等を行っている業者さんに、うちにある機械をつかえばなんとかなるかもしれないといって、車イスの前輪とステップを車イスからとりはずし、駅にある車イスにのりかえて、その駅員さんとともに駅長室で待っていました。
そうしたところ駅長さんに駅員さんがつれていかれ、わたしがじっとまっていると多分駅長さんは気付いていませんでしたが、当事者の駅員さんを大声でどなっていたのでわたしに丸聞こえでした
「なぜ謝罪してこんなところに連れてきた!なぜ知らん顔して普通に案内をおえなかった!」
と怒鳴っていたのをきいて、なんてところだ1年たっても変わっていないのかと強く憤りを感じました。
5・ついには車イスでホームに転落する
その後また3,4か月後に今度は新宿から乗り駅員さんに連絡してもらって高田馬場で降りたのですが、
いつもだとホームから降りてもエレベーターのところまで利用者を案内し乗り降りを手伝い改札を通り抜けるまで案内してくれるのところ、
その時に限って若い駅員さんに、あちらにエレベーターあるのでお気をつけていかれてくださいといわれ案内をしてくれませんでした。
わたしも予定の時間がせまっていたのもあり、わかりましたといい、自分でホームの隅を通りながら向かっていました。
山手線は3分おき程度で電車が行き来するため、私がエレベーターまで向かっているあいだに次の電車がきてまた去っていきました。
そしてたくさんの人がホームにおりてきたので人だかりでわたしは足元がみえていませんでした。
そんなときに、階段があってよりホームとの幅が狭いところをつい通ろうとしてしまい、お客さんが降車してエレベーターや階段やそれぞれに向かっており、その人込みを避ける形でついついハンドルを線路側に切ってしまいました。
そこからは記憶がないのですが、これは後日聞いたはなしですが、
ホームから転落してしまい、頭をホームの砂利に強く打ち、その時の衝撃でたまたま線路の間の枕木に身体が落ちたうえを、電車が通過し、ホームから見ていた人はキャーと悲鳴をあげ、かたや慌てて緊急ボタンを押す人など様々いたようです。
わたしが自分で覚えている記憶は気付いた時は、救急隊の人やいろいろな人に見下ろされる形でタンカにのりながら必死に声をかけられているところで
「いまから救急車にのって病院にいきますからね!聞こえますか!聞こえていたら反応してください!」
と声をかけられており、わたしは何が何だかわからず、タンカをおろして車イスにのせてくださいと必死にしゃべっていましたが、うまく言葉になっていなかったようで、救急車にのせられました。
そして救急車の中で救急隊からお母さんに連絡してください、親御さんに連絡してくださいといわれといわれ、携帯電話を耳にあててもらいながら事の経緯をはなしたのをなんとなく覚えています。
はっきりとした記憶であるのはベッドの上で病院にいるところからです。
後日、両親が心配し父親の知り合いの当時日本で5本の指にはいるという脳外科部長に念のためにCTスキャンをとってしっかり診断してほしいと父が頼み、病院にいき検査をしてみるとその先生いわく、
「何かしらの身体に不具合を持っている人は脳のどこかをみれば何か異常があるのが普通なのに、脳は理想的な脳の皺の形をしているので、このままホルマリン漬けにして授業に使いたいくらいのきれいな脳をしているから、この脳を見るかぎり脳外科医としてはなぜ障碍をもっているかわからない。歩けないとかは自分で思い込んでいる、自己暗示的なものだとしかおもえない。」
と言われました。両親やその時入っていたヘルパーなどに
「エセ障碍者」
と言われるようになりました。
悪いことは続くものでまたまた数か月後、電動車いすで交差点をわたっていると真ん中で急に車イスがとまり、立往生して車にひかれそうになり、運転手に
「なにしてるんだ!お前死にたいのか!」
「いえ違うんです急に止まってしまってすみません、とりあえず道路の端に寄せてください」
と運転手に頼み、手動にきりかえてもらいました。
そのあと路肩に車イスを停車しているときに、当時よく入っていたヘルパーさんや働いていたNPOの事務所に連絡して、誰か迎えにきてくれないかといったのですが、皆さん予定があるとかでダメで、たまたま通りがかった人が近くの作業所の職員さんを呼んできてくださって、その職員さんが
「ちょうど福祉センターにいけば車イス業者さんがきてくれているはずだ」
と教えてくれ、車イスを押してもらって福祉センターまで連れて行ってもらい業者の人にみてもらったところ実は充電ケーブルの中身が断線して、充電がされていなかったということがわかり、ケーブルを交換してもらいそこの施設で2,3時間充電してから自力で自宅に帰宅しました。
それ以来充電するときもちゃんと充電ランプがついているかということをより確認するようになりました。
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今ではエレベーターがあるので車イスでエスカレーターには乗りませんし、(そもそもエスカレーターでそういう使い方はしなくなっていると思います。)
突発的にビクンと身体が動くことも多くなったので電動車イスで一人で出歩くこともなくなりました。
事故が立て続けにおこるというのも厄年だったのかなと思います。
思い出の一つですね。
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