大名茶人 織田有楽斎 京都文化博物館【辰野金吾】 京都市中京区
大名茶人という言葉には微妙な語感があります。ミュージアムでの企画展でこのように呼ばれるのは松平不味(治郷:1751-1818)でしょうか。江戸中期、出雲は松江のお殿様。茶人の方にウェイトがかかった感のある、平和な時代の人です。
今回のお話は織田長益(有楽斎:1547-1622)。晩年は平和になりつつありましたが、戦国時代真っ只中の人。なんせ兄は天下布武の人織田信長(1534-1582)。有楽斎は茶道に秀でた武将として挙げられる事は多いのですが、今回の特別展のように主役としてフォーカスされるのは珍しいのでは。
京都文化博物館
ズバリ「大名茶人 織田有楽斎」と名付けられた特別展が行われたのは京都文化博物館。京都府管理のミュージアムで1988年開館で2011年にリニューアル。レンガ造りの建物は日本銀行京都出張所として1906年竣工、平安博物館を経て別館となり重要文化財指定。別館の設計は辰野金吾(1854-1919)と長野宇平治(1867-1937)の師弟コンビ。辰野は日本近代建築の父、ジョサイア・コンドル(1852-1920)の1期生。
辰野さんは東京駅や各地の銀行等を設計し、それらは日本各地に現存しています。京都文化博物館別館と同じくレンガの建物が目立ちます。
以下、辰野建築3選
京都には国立博物館があり、寺社の宝物館も多数。実業家系の個性的な私立ミュージアムも充実しているので、府や京都市立のミュージアムは相対的にややパンチに欠けます。常設展示に土地柄か発掘品が多く並んでいる印象。
京都府京都市中京区高倉三条
博物館界隈の三条通は桃山時代にはせと物や町と称され、陶器を扱う店が軒を連ねていたそうです。常設展示では発掘調査により掘り出された桃山陶器とそれらに触発された現代アーティストによる作品も併せて展示。アートと考古学の連携らしいのですが、感想はシンプルに「よく分からん」。ごめんなさい。
織田有楽斎という人
織田信長にはたくさんの兄弟がいましたが戦死した人が多く、有楽斎は信長没後も大名として生き延びた数少ない1人です。有楽斎は本能寺の変時は、信長の後継者で甥の織田信忠と二条御所にいました。信忠には自刃をすすめながら自分は逃亡した事から「逃げの源吾(有楽斎の通称)」とありがたくない異名で呼ばれます。信長は本能寺で自刃しましたが、チャンスがあれば信長も逃げたのではないかと想像します。有楽斎も同じ思考だったのではないでしょうか。
ちなみに本能寺は博物館から徒歩10分ほどの距離。
特別展のタイトルになっている茶人で有楽斎と同時期の武将としては、細川忠興(1563-1646)、蒲生氏郷(1556-1595)、高山重友(右近:1552-1615)が知られています。ただし彼ら3人は「茶の湯にも堪能でした」と説明される事が多く、とてつもなく戦闘力が高い面々です(武の側面がより知られている)。
一方、有楽斎は信長の弟という立場や血筋を生かしてか、外交や和議を取り持ったりと戦場を駆け巡るタイプではなかったようです。展示には当時の同僚だった武将や茶道関係の町人、そして徳川幕府の幹部と幅広い人たちとのやり取りを示す文書が多数あり、人間関係において能力を発揮する人だったのでしょう。
展示では当然のごとく茶器関係の名品も並びましたが撮影は不可(参考にトーハク所蔵の有楽井戸を)。そして1点の茶碗が目を引きました。青磁花輪茶碗の鎹です。マスプロ美術館(愛知県日進市)所蔵の茶碗ですが、ぱっと見はトーハク所蔵の馬蝗絆かと。そして鎹が有楽斎から角倉家、平瀬露香へと伝わった事を知ります。割れた茶碗の修復に鎹を使う中国人のセンスは理解不能。「かすがい」と名付けた人のセンスはアリか。長いこと近畿にあったようですが、現在は有楽斎の故郷である尾張の国に!
図録には有楽斎が晩年を過ごした正伝永源院の住職・真神啓仁さんの論説にコラムや住職参加の座談会(有楽斎について語る)の模様が収録されています。住職目線になりますが明治政府による廃仏毀釈を中国の文化大革命と同様の汚点と表現されていたのが印象的です。正伝永源院は明治維新後に正伝院と永源庵が合併した複雑な歴史を持つお寺です。有楽斎は正伝院のビッグスポンサーでした。
正伝永源院は建仁寺の塔頭ですが、常時拝観可能ではありません。そして有楽斎ゆかりの建物は何故か愛知県犬山市に現存します。特別展の出口あたりで特別公開の案内を見つけてしまいました。
つづく
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