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Ⅱ章 彼女の場合①

「舞衣さん、起きてますー?舞衣さーん!」
「まーた朝帰りですかー?」

 麻生舞衣は、後輩である藤崎の声を聴きながら、重くなった腕をフラフラと振りながらデスクに上半身を預ける。

「あーだめ。全然だめ。少し休ませて……」
「もう……。自己管理は社会人の常識って教えてくれたの舞衣さんじゃないですか」

 彼女にとって朝帰り自体はいつものことだ。今日に限ったことではない。
そして、藤崎が舞衣の業務のフォローをするのもよくある日常の風景だ。
しかし今日は、彼女の声がやけに響く。

「昨日の人、凄くってさ。もう何回シタかわからないくらいずっと……。携帯のアラームで起きたんだけど、いつの間に寝たのかわからなかった」
「へぇー。昨日のお相手は、体育会系の人だったんですか?それとも単に性欲の強い人?まぁなんでも良いですけど、その受注書下さい。私やります」

 体育会系……。お願い、と覇気のない声で言って、舞衣は悪びれた様子もなく、藤崎に受注書を渡して青いラベルの飲料水の封を切る。さながら病人か、二日酔いのOLのようである。


―—――確かに、昨日の男の性欲は凄かった。肌を重ねてから何度も自分の中を搔きまわされた。猛々しく屹立した「それ」は見るからに硬く、力強く、そして自らの存在を彼女の中で存在を残すように深く、広く、こじ開けていった。そうして絶頂を迎えては、再び快楽を求めて舞衣の身体に吐き出していった。


「もうそろそろお昼の時間だから。麻生さん、早めにお昼行ってください。午後がダメそうなら、早退で大丈夫ですよ」

主任の冬木がそう促すと、舞衣はそれに従って前屈みでレジ袋を手に休憩室へ向かった。

「藤崎さんも行っていいですよ。その書類、僕がやっておくから。彼女のフォローお願いします」

 一瞬困惑するが、すみません、と言って藤崎は弁当箱を手に舞衣の後を追った。


 藤崎は休憩室に入ると舞衣を探す。休憩時間が他の社員より早いのですぐに見つかったが、テーブルと頭を一体化させてうめき声をあげていた。

「もう。冬木主任、あれ絶対怒ってましたよ。」

 彼女たちの上司、冬木は面倒見の良さと丁寧な指導に定評があり、問題児の扱いにも長けていた。糸目と温和な笑顔が印象的だが、その笑顔が張り付いているようにも見え、感情を出さないことから裏では「鉄仮面」と呼ぶ人もいる。

「あーーー鉄仮面?大丈夫よ。あの人に怒られたことないから」
「そういう問題じゃなくて、いつ飛ばされるかわからないじゃないですか」「あーーー今は考えたくない。今度どこかで必ず絶対挽回する」
「えぇ……」

 ひと通り中身のないやり取りをすると藤崎は弁当を取り出す。中は手の込んだ料理が入っいて、いかにも自炊しているといった空気が感じられる。

 舞衣はレジ袋からゼリー飲料と果物入りのゼリーを取り出して、藤崎の弁当を観ながら話しかけた。

「藤崎……あんた、だいたい作ってるよね。お弁当。」
「えぇ。水曜以外は作るようにしてますよ。」

「……もしかして彼氏の分も作ってるの?」

「あーはい、作ってますよ。彼、昨日は飲み会で。今日は朝帰りだったんですけど、おかず作ってるときに丁度帰ってきたから用意してあげました」「そうなんだ……」

「……どうしたんですか?」
「いやぁ……。凄いなぁって。私、絶対出来ないもん。飽きる」

「わかりませんよ?案外やってみたらハマったりするかもしれません」
「どうかなぁ……。いや、ないな」

 そうですかねぇ、と言いながら、お手製の料理を口に運び、どこか嬉しそうに弁当のおかずを食べている藤崎を観ながら、舞衣は言った。

「でもその感じだと彼氏君とはうまくいってるのね」
「えぇ……。まぁ可もなく不可もなくですけど。また三人で飲みに行きましょうよ」

「いいわね。その時は、イイ男連れてきてって言っておいて」
「それじゃ合コンじゃないですか」

「冗談よ。はぁ……。でもどっかにイイ男いないかなぁ……」
「どうしたんですか、急に」

「あんた見てるとね。たまに、そういうのもいいなって思ったりするの」「珍しく嬉しいこと言ってくれますね。そろそろ舞衣さんも落ち着いたらいいんじゃないですか?」

 藤崎は、短大を卒業した後に新卒で入社した。その時の教育係が主任の冬木であり、舞衣は先輩にあたる。最初は、右も左もわからなかったが、冬木の丁寧な指導、舞衣のポンコツぶりに鍛えられ、今では見事に舞衣をフォローする側に回っている。現在は、短大時代に働いていたバイト先の同僚と同棲している。

「落ち着く……か……。なんかイメージ湧かないんだよね」
「イメージ?」

「そ。自分が誰かと一緒に歩いてるイメージ。それも幸せそうに。そういうイメージが全く浮かばないの……」
「私はそんなこと考えたことないですけど……」

 意外とロマンチストなんですね、という一言を聴いて、彼女は自嘲した。

「ロマンチストなのかもね……。頭が良くて、仕事もスマート、おまけに高収入。自信家だけど根は真面目で優しくて。私が怠けても怒らずに愛してくれる……。そんな白馬の王子様……」


 いないかなぁ、と言って窓の外を見る。
季節はまだ二月。雪はないが空は灰色で乾いた空気が、ビルの窓越しからでも伝わってくる。


―—――現実と理想は違う。
わかっていても理想を求めてしまう。最初は少なかったはずなのに……。
歳を取るごとに求めるものが多くなっていく。
それが自分に対する自信の無さからか。
それとも手に入らない幸福に対する嫉妬からなのか。もうわからない。

「藤崎、今の彼氏好き?」
「どうしたんですか、いきなり。好きですよ」

「じゃあ、どれくらい?」
「えぇ……。恥ずかしいこと聴きますね」

うーん、と唸ってからしばらく考えて、彼女は「朝起きて、横にいなかったら悲しいって感じるくらいですかね」と答えた。

「……そっか。幸せになることを願ってるよ」
―—――もうどうでも良いことだけれど。


 舞衣は、その答えを聴いて、ひとつの達成感を得た。


「ありがとうございます。じゃあ私、お先です」


そういって休憩室を後にする後輩の背中を眺め、彼女は嗤う(わらう)。










―――—その彼氏の朝帰りの理由。私の身体はまだ覚えてるよ。


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