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【現】2023年12月30日(土)|徒然なるままに書くと自己懲罰的文章しか書けなさそうやな

しこたま飲んだ翌日は大抵世捨て人のような生活スタイルに成り下がる。

「成り下がる」じゃないか。「成り下がる」と言える人は「成り上がった」過去がある人なのだから。だったら僕にはその権利は無い。言葉のチョイスを見誤った。

そもそも、世捨て人のような暮らしを日頃からやっているじゃないか、と指摘されても、苦笑いを浮かべながら首肯するだろうに。よくも言えたものだ。「成り下がる」なんて。どうせ言葉の音色でなんとなく使ってみたかっただけだろう。だからお前が書いた文章は「ポエム」とか「キザ」などと揶揄されるんだぞ。

そんなことはどうでも良い。閑話休題。「成り下がる」がNGワードであることは分かった。じゃあ何が良いだろう。しばし考えてみた。けれども良いワードがなかなか思い浮かばない。さあ困ったことになったぞ。

こういう時に、自身の語彙力の貧弱さを憂いたくなる。そうなると大抵「広辞苑でも買って読破してみようかしら・・・」と想像してはみるのだけど、せいぜい「あ」の項目に全て目を通して満足感を得て本棚の番人として居座る未来しか描けないので、結局、何もしない。

つまり「僕は語彙力が無い」の現状把握と「だから広辞苑で語彙力を鍛えよう」の企画立案まで進めながら「よし実際に読んでみよう」のアクションを起こさない、こんな体たらくなのである。

悲しいかな、この「アクション」を起こすまでは数多くの試行回数、もとい、思考回数を重ねながらも、何一つとして身になっていない、そういう人は僕に限らず大勢居るようだ。忘年会の席での会話に耳を傾けるとそんなことを思わず憂いたくなる瞬間がある。

だがしかし、僕にはそれを指摘する権利はない。なぜなら同類だからだ。自分のことは棚に上げて「キミはいつも口だけ達者だな!」と言うのは、いくら僕でも恥晒しなマネであると心得ている。だから黙する。気付いてもサッと流す。そうすると、あら不思議、美味しいお酒とご飯を飲み食いしていると、頭をもたげていたモヤモヤがいつの間にか居なくなっちゃった。めでたしめでたし。

・・・なわけがないだろう。「忘れた」と「無くなった」は「≒」(ニアリー・イコール)ですらない、むしろ「≠」(ノット・イコール)とハッキリと言い切ってやった方が良心的まである。この区別がキチンとなされていないケースがやたらと目に付くからだ。僕はソコに関しては滅法うるさい。

いや、「ソコに関しては」よりも「ソコに関しても」と言った方が、より事実に即しているだろうか。とりわけ、昨日、僕と忘年会と銘打って夜の街に繰り出した、旧来からの友人達にとっては、間違いなく「ソコに関しても」であろう。

僕は、気の置けない間柄になればなるほど、自分の面倒臭さを露呈する悪癖がある。「たぶんこれぐらいやったら許してもらえるだろう」という甘えがあるのだ。頭では分かっている。親しき中にも礼儀あり。けれど、実際に行動に移すことは出来ていない。やはりここにも「言うは易く、行うは難し」のロジックが当てはまる。

親しき中にも礼儀あり。コレ、本当に大事。繋がりを失ってはじめて、自分にとって大切な存在だったんだと気付いても、もう遅い。後の祭り。身につまされる言葉だ。

いや、自分で書いた言葉に、身につまされる、というのも、変な話か。ああなるほど、無意識的に現実逃避しているのか。そう考えると合点がいく。思い出したくない記憶だから、まるで経験しなかったかのように、防衛本能として、他人事のように取り扱っているんだ。そうか。現実を直視していない証拠だ。コレもまたダメ。だから何度も同じ過ちを繰り返す。反省しているフリなら猿にも出来る。見え見えなんだよ。一見、殊勝な態度を装っているようでいて、自己憐憫と自己顕示欲にまみれているのがさ。

・・・ウウ、胸がキリリと痛んで来た。過去の苦い記憶が僕の身体を蝕んでいるようだ。こればかりは道化でもなんでもない。今この瞬間、起きていることだ。右胸の辺りだ。そろそろやめた方が良いというSOSサインだろうか。分かった。おいとますることにしようか。

最後に一つだけ。痛みに顔を歪めている一方で、「筋肉痛の痛みとはまた違うんだなぁ、なるほどなぁ」と、ちょっと思案顔になっている僕もまた、今この瞬間、起きていることだ。なんだかんだ言って、コイツが一番怖い。

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