【書評】『老人と海』は、欲望からの開放ストーリー
ロッシーです。
『老人と海』を読みました。
この光文社古典新訳文庫の翻訳は、ハードボイルド小説を感じさせる文体です。この小説の雰囲気によくマッチしていると思いました。てっきり北方謙三が翻訳しているのかと思うくらいに(笑)。
(以下ネタバレを含むのでご注意ください)
単なるマッチョストーリーではない
『老人と海』は一般的に
「3日間カジキと戦った不屈の精神をもつ老人の物語」
というような捉え方をされることが多いと思います。
老人は「敗れざる者」としての象徴ということです。
アメリカ人が好きそうなマッチョなストーリーですね。
作者のヘミングウェイも「パパ・ヘミングウェイ」という愛称がつけられるくらいマッチョなイメージが強いです。しかし、彼の人生をよくよく見てみると、本当にそうなのか疑問です。
表面上はマッチョに見せているけれども、内心は壊れやすいガラスのハートなのではないか? そんな風に思える部分もあります。
仮にそういう人間が書いた小説だとすると、そこに「マッチョな老人と海と自然との闘い」というわかりやすい構図を見いだすのはやや安易な気もします。
そもそも論として、本当にマッチョな人間が小説を書くのか?
という気もしますね。もちろんこれは幾分の偏見も入っていますけど(笑)。
欲望からの解放ストーリー
ただ、私自身はこれとは違う見方をしており、この小説は、
「ひとりの人間が、広大な海で欲望から解放されていく物語」
だと思っています。
小説に出てくる巨大なカジキは、老人の欲望の象徴です。
それは、手に入れてやろう、勝ってやろう、人より抜きんでてやろう、といったエゴイスティックな欲望です。
自分の欲望に囚われているため、老人はカジキを手放すことができません。カジキは、老人にとって別個の存在ではなく、いってみれば自分自身だからです。
ロープを通じて、老人とカジキはしっかりと結びついているのです。物理的にも精神的にも。だからこそ、3日間もぶっ続けでロープを引っ張り続けることができると考えるほうが自然なのではないでしょうか。
最終的に、老人はカジキを仕留め、ボートに括りつけます。つまり、両者は一体化します。
しかし、その後にサメが来て、カジキを食い荒らしてしまいます。
その結果、老人はカジキを失うことになります。つまり欲望が消失するわけです。
老人の変化
カジキが最初のサメに襲撃されたとき、それに抵抗しようとして、老人はこのように言っています。
しかし、必死の抵抗もむなしく、カジキはどんどんサメに食べられてしまいます。
そして、カジキを失い港へ帰還するときには、老人はこう言っています。
この老人の変化は大きいと思います。
欲望が消失することで、老人は執着しなくなっているのです。
もはや、巨大なカジキを戦利品として持ち帰れなかったことは、彼の中では問題になっておらず、そもそも何に負けたのかどうか?という認識もあやふやになっています。
母なる海の大きさに比べれば、老人もカジキも取るに足らない存在です。
その母なる海で、老人はある意味において癒やされ、勝ち負け、名誉、栄光などといったエゴイスティックな欲望から開放されたように見えます。
そして老人は、生まれ変わったかのように深い眠りに落ちていきます。
失ったからこそ
ちょっと想像してみてほしいのですが、もしもこの小説の結末が、老人がカジキを無事に持ち帰るストーリーだったとしたらどうでしょう?
おそらく、その場合『老人と海』はこれほどまでに評価されなかったように思います。
老人がカジキを失ったからこそ、この小説はその内容に大きな広がりと深みを与えているのではないでしょうか。まるで広大な海のように。
そして読者は、そこに何らかの意味を見出だすのかもしれません。ある種のハッピーエンド的な読後感とともに。
海の視点
老人は、「敗れざる者」なのか「敗れた者」なのかは議論の余地があるかもしれません。
しかし、もはやそれもどうでもいいのではないでしょうか。
広大な海という視点に立てば、ひとりの人間が魚をつかまえて、別の魚がその魚を食べたということでしかありません。
勝ち負けという価値判断をするのはあくまでも人間の視点であって、あるがままに見れば、そこには勝ち負けなどないのでしょう。
私達も、何か悩んだときに、「海の視点」で物事を眺めてみたら、もっと気楽になれるのかもしれません。
海からすれば、たいていのことは「どうでもいいこと」だと思います。
最後に
『老人と海』は、高校生のときに読んだ記憶があります。
そのときは、「なんでこんなつまらない小説がノーベル文学賞なんだ?」と正直思いました。
でも、若い時というのはそういうものなのでしょう。
「自分がよく理解できないもの=価値がないもの」
と即断してバッサリ切り捨ててしまうのは、若さゆえの特権ですから。
シャーロック・ホームズは『ボヘミアの醜聞』という物語でワトソンにこう言います。
高校生の頃の私も同じだったのでしょう。つまり、
「君は本を読んでいる、でも熟読していない。」
ということです。もちろん、今でも熟読できているとは言い難いのですが、高校生のときよりは熟読できていると信じたいですね(笑)。
でも、海の視点からすれば、熟読できているかどうかも、どうでもいいのかもしれませんね。
ただ読む。それでいいのではないでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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