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自分の歴史を抱きしめる


最近全然アウトプットできていなくて
苦しい日々でした。
無性に書きたかった。

書くことって、実は苦手分野で。
うまく纏まらないことが殆ど、
メモを取らないからすぐに忘れてしまうことが多かったり。

でも、そこがよかったりもする。

考えや感情って常に一定ではなく、
天気のように変わる。
軸がしっかりあって、
周りから見たら変化のないような人でも
人間だったらもちろん
気持ちが変わることもあるのだ。

私は大した人間ではない。

一般の主婦で母で社会人で一人の人間。
けれどそんな私でも理想を突きつけられることがある。

あなただからできるのね
あなたのようになりたい
あなただから安心する
あなただからすごいのね
あなただから…

そんなことを言われると切なくなる。

恐縮に似た感情だけれど、
自分で納得できるほど
満足に人生を謳歌しているつもりもなく、
悲しい感情や寂しい感情、
劣っていて恥ずかしい感情は
いつもある。


自信のない自分って、
誰でも心の隅にいると思う。


夫も然り


離婚がしたかった頃の感情が強すぎて
よく今でも不安に駆られることがある。

あの頃は彼を嫌いになりたくなくて、
関係が壊れる前に別れたかった。

逃げたい気持ちが強かった。
大嫌いになりそう、、
というよりすでになっていたかな。

あれから10年近くが経ち、
最近になってあの頃の彼の状況を
少し理解できるようになった。

彼は口下手で
態度で示すような人だから、
私の解釈が定かではないけど。

あの頃は、
私の不安な気持ちを彼のせいにしていたけれど
同時に彼の余裕も自信もなかったのでは?
と考えるようになった。


あの頃はお互いに
良くないとわかっていても
”自分の方が辛い自慢”をしていて、
傷つけ合うだけの日々。

そして互いに慰めることができなかった。

きっと一般的な夫婦の喧嘩って、
納得がいくまで話し合いができることも
多分稀にはあるだろうけれど、
基本はどちらかが折れるパターンじゃないかな。

理想を持って相手と一緒になったから、
私・僕を幸せにしてよ、と
自分の幸せの舵取りを相手に押し付けてしまう。


私たちもきっとそんな状況だった。

けれど当時は私が正しい。
私はそう思って疑わなかった。

自分に自信がない夫に、
正論を突きつけても傷口に塩を塗っているようなものなのに。

彼が私を精神的に傷つけていたのは事実だけど
私は正論を振りかざすモンスターだったのかもしれない。


失敗は成功の元


こういった状況にだったことに
気付いたのはここ2、3年のこと。
(ここ2、3年はマシになったと思う)

始まりは10年近く前のことだけど、
それまでの7年ほどは今思えば構築期間だった。

構築に成功したとも思っていないけれど、
確実にしてよかった。と思うことがある。

ぶつかることをやめなかった、これに尽きる。
逃げようとする彼の前に、
正論モンスターの私は
ひるむことなくぶつかった。

そんなことを繰り返すと
逃げ腰だった彼も
いつの間にかぶつかってきてくれた。

とはいえ愛も枯れることはある。
長期間水を与えなければ2度と花を咲かせることはない。

けれど、
この水とは相手からの愛だけとは限らない。
(不倫じゃないですよ)


子どもやペット、
友達や、何気ない時に出会った人。
良いも悪いも
たくさんの人に触れ合うことで
自分の中の愛が枯れることはない、と思う。

愛とは一概にいい人だけから
得られるとは限らない。

嫌いな人に傷つけられた時は
その人ではない
他の人からの日頃の優しさを
思い知ることができる。

そうして与えられた愛はやがて
枯れさせた当人である夫へと注がれることもある。

まずはここに気付けること。


世界を広げると、
人生において自分の相手は一人ではない。

愛は、与えられると共に
感じるこちらの気付きが
重要なのかもしれない


そう感じた時、
彼はどうだろうと気になった。

枯れきっていないだろうか、と。

相手に不満を持った時
正論をぶつけるよりも効果的なのは
同苦すること。

これは全くできていなかったと
申し訳なくなった。

あんなに自分が被害者だと
ブレなかった私が。

同苦するのは
かなりこちらの心が
試されていると思いながら、

それでも彼と一緒にいるための
最後の手段かもしれない。
その思いで彼に近づいてみた。

失敗しない人は挑戦しない人
成功した人は失敗を繰り返した人
とよく言うけれど、

失敗は積み重ねていくと
誰にも崩せない・越えられない糧になる。

この言葉が
私が辛い時に
踏ん張れて、変われたきっかけだった。


自分はどこ


夫は不器用な人で、
私はどちらかといえば
うまくできるねと言われる方だ。

彼を愛していることや
尊敬できるところはある。
書き出したらたくさん出てくると思う。

けれど同じくらい
許せなかったり腹の立つこともある。

私は臆病で石橋を叩いて渡るタイプ。
育児には常に神経を張り巡らし
検索魔になっていた。

だから子どものこともきっと私の方が
よく考えてるという自負があった。

一方彼は調べることもなければ
土壇場育児。
結局自分のことしか考えてないんだと
(当時)思っていたけど、
彼も彼の最大限の表現で
子どもを思い遣っていることが分かって、
私は何なんだ。と反省した。

これは価値基準の差なのだろう。
仕方のないことと今は割り切っている。

けど当時は、
自分はなんでもわかったふりをして、
何も知らない=間違っている彼に
ただ謝って欲しかっただけなのかもしれない。

同じように子供たちのことを調べて守って
そしてお互いを思いやれる素敵な夫婦になりたい、

なんて、さも真っ当な持論を持っていたけど、
本当のゴールは
彼をただ私の前に平伏せさせたかったのかもしれない。

と、言うことは
私の目的は自分本位なものだった?

そう思い返し、一旦立ち止まってみた。

後悔よりも
なんとなく自分を取り戻せたような気がして
心が軽くなった。

まだ子どもを育てている段階で
未熟で当たり前な自分を
”完璧な母”という
”無茶苦茶な理想”にならなくてはと
思っていたのかな。

母でもない、
妻でもない、
一人の人間としての自分を
自分が見つめていなかった。

自分のことは一番分からないものだ。

けれど、事実として
自分の歴史を一番知っているのは
自分なんだ。

難しいけれど、
過去の自分に向き合えたとき
小さな頃の自分や
若い頃の自分に
同情に似た労いの感情でいっぱいになった。

自分の愚かさや失敗を
認めて向き合って自分を知る、
ということが新しい発見だった。



ゴールはまだまだ先


失敗のない人間?
そんな人は絶対に存在しない。

誰かを喜ばせた時ですら、
違う誰かを傷つけているかもしれない。

でも、次の瞬間に笑顔に変えれている
かもしれない。


人生にめでたしめでたしは
ないのかもしれないけれど、
不幸なバッドエンドで終わるばかりでもない。

必ず続きがあるものだ。

もし、今日落ち込んで泣いていても
1分後、1日後か
1ヶ月後、1年後
分からないけれど
きっと大なり小なり
幸せを感じる瞬間は来る。

そう信じていれば
幸せをキャッチしやすくなる。


死ぬために生きている。
ゴールはみんな同じ。

せっかくならたくさんの幸せに
気づける自分でいたいと思うんだ。


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