【創作note】カテゴリーの謎 ~どうしてそれがないの?
noteを始めてあと半年で2年程になるだろうか。最初の方は環境に慣れるのに苦労しながらも、面白がって毎日のように投稿していたように思う。(何でもだいたい最初はそんなものかもしれない)近頃は、日に1度か多くて2度、3度くらい投稿している気がする。直接的な入力ではなく、一旦下書き保存しといたものを公開する方式だ。
さて、最初まだとても不慣れだった頃、「下書き保存」というのがよくわからず、一旦公開してからそれをいちいち下書きに戻すという作業をしていた。その時に驚いたのは、下書き保存されたものを改めて公開しても、その時のタイムラインには表示されないことだ。どうも最初に公開した瞬間に遡って表示(公開)されているようなのだ。
「いやいやいやいや……、あの時のはフライングですやん」と何とも言えぬ気持ちになった記憶がある。(認識のずれというものだろうか)
タイムラインにある記事は、ざっとでも見るようにしている。以前に比べてそれも時間がかからない。アクティブに活動している人はどれくらいだろう。だんだんと寂しくなってきている感もある。みんなリアルに忙しいだろう。それどころではないという人もいるだろう。こっそりと大作に取り組んでいる人、引っ越ししたという人もいるだろう。人それぞれである。
さて、時々気が向いたら、タイムライン以外の記事でも見に行こうかということがある。その時は、だいたい窓から#を検索して行く。(今年はだいたい雨か、詩だった)人気の#には、日記、エッセイ、イラスト、絵、詩、人生、つぶやき、猫といったものがあるようだ。
#の他に 、「カテゴリ」というものがあるらしい。へー、そんなんあるんか。
「誰かカテゴリーから何か探すという人はいますか?」
・#は個人的なものか
タグは自分で自由につけることができる。それによって誰かとつながることもできるし、誰とも全くつながらないということもある。また、意図せずにつながってしまうという場合もある。
これ「買ってよかったな」と思いつけてみた#が、共有されるお題になっていたり。「また乾杯したい」、「この街がすき」という思いを抱いた時に、ちょうど旬のお題になっている。これ「創作のマストアイテム」だなと思ってつけた#がお題と被っている。そういうことはよくあるのではないか。(思わぬ形での出会いとつながりは#の面白さ)
・カテゴリーは自分から飛び込めない?
タグは相当に自由が利くのに対し、カテゴリーはいったいどうなっているのか。#をつけた記事を書けばそのカテゴリーの記事に入るの? いや、そうではない。(それなら#と同じだ)
カテゴリーは、あるところで何らかのエビデンスによって選択されて入ることがあり得る? そこにはAIの働きもあったりする?
(正直よくわからない)まなび不足で誤解を招いたとしたら申し訳ない。
・世界は7つに分かれている
カテゴリーはまず大きく7つに分類されるようだ。
そしてその下に更に細かく分かれている。
くらし 10
まなび 5
しごと 6
社会 4
エンタメ 7
テクノロジー 4
カルチャー 11
ざっと50種類くらいだろうか。
まず大きく分けたところから、あまりピンとこない。
「どうでしょうか?」
カテゴリー的な話になると、どうしても不公平感のようなものがつきまとうもので、それに対処・改善して行くのはなかなか大変そうである。
・カルチャー強し!
まず最初にくらしの充実振りが目につく。エンタメもそこそこだが、もっと頑張れるのではとも思う。一番充実しているのはカルチャーだ。(最初と最後に気合いが入っているというわけではあるまい)まなびもカルチャーと考えれば、ぶっちぎり1位である。一方で、社会、テクノロジーは4と少し寂しさを感じさせる。因みにテクノロジーの1つ目はテクノロジーだ。(カルチャーショック!)そして4つ目はガジェットで、Pomeraなどはそこに含まれそうである。
・アート推し!
カルチャーの中にはアートが入っている。
「アートって何ですか?」
個人的にはアートはもっと大きな存在だ。
そこで少し寂しい(社会)を(くらし)に吸収させ、新たに(アート)という大カテゴリーを設ければよいのではないだろうか。
もしも自分が(note)だったら、今からそうしようと思う。
・マンガの存在感
ニッポンはマンガの国。政治よりテクノロジーよりマンガが国を引っ張っていると言っても過言ではない。よってマンガは、エンタメであり、カルチャーにも当然のように含まれている。マンガから学ぶという人も多くいて、くらしにも社会にも決して欠かすことのできない存在になっている。因みに読書・書評も、まなび・仕事に含まれていて、マンガを読書の中に入れて数えることも可能だろう。
・野球、サッカー2強時代
エンタメの中にはスポーツがあり、その下に野球、サッカーと続いている。両者は強すぎてスポーツの枠から独立して抜け出たという形である。だが、そのエビデンスは近年揺らいできている。ある場所では、その人気が卓球、ラグビーに変わっているという話もある。また、抜け出し方式を用いるとするなら、くらしの中に含まれる(ペット)の下に、犬、猫を独立して抜け出させるべきではないだろうか。それくらい両者は強く、犬派・猫派といった対立も至る所で見受けられる。
・テレビ・映画(中黒エビデンス)
小カテゴリーの中には、・によって結びつけられ1つになっているものもある。くらしの中の(旅行・おでかけ)はどういうものか。旅行は大きく、おでかけというのは近所の散歩とかいうものだろうか。2カテゴリーに入っている(読書・書評)というのは納得の結びつきではなかろうか。
エンタメの中にあるのが(テレビ・映画)だ。最近は、映画も映画館より家のテレビで観る人が多くなった。しかし、中には一緒にされたくはない人もいるかもしれない。家にテレビはなく、タブレットでユーチューブを見ているという人も多いのではないか。そう考えた時、テレビが映画の前に立っていることに違和感も湧いてくる。そこで映画は(映画)として、仮想大カテゴリー(アート)の中に加えてみてはどうだろうか。因みに、ラジオはカルチャーの中、写真と音楽の間に含まれているようだ。
ところで、この・(中黒方式)を多用すれば、もっとカテゴリーを多彩にしたり、自由度を広げることができると思われる。
「人はどういう時に(・)を打とうとするのだろう」
・#では人気者 ~ぼくはどこに?
先にも触れたが、人気のタグとして日記、エッセイ、イラスト、絵、詩、人生、つぶやき、猫……。様々なものがあるようである。しかし、意外にもそれらをカテゴリの中から発見することは、困難なようだ。人気のあるジャンルならば、カテゴリとして並んでいても不思議でなさそうだが、#は#、カテゴリーはカテゴリーとして目指すところが分かれているのだろうか。
将棋はゲームだろうか。
日記は創作だろうか。
詩は小説だろうか。
「何かを探して迷子になっている人はいますか?」
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