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【日記】徒競走とメンタル〜今ある現状をポジティブに受け入れる考え方〜

こんにちは、唐梨です。
今日は徒競走とメンタルについて書こうと思います。それでは早速いってみましょう。





運動神経が壊滅的だった子ども時代

私はとにかく運動神経が皆無な子どもだった。というか今もそうだ。

どれくらい壊滅的だったかというと、バレーボールでサーブを打てば飛距離が足りなくてコートの向こう側まで届かず、バスケットボールのシュートはもちろん当然のごとく外し、卓球のラリーは続かず、テニスのボールはコートの外側の明後日の方向に飛び、ドッジボールは右手と右足が同時に前に出て投げる、くらいには壊滅的である。なんかもう「生きててすみません」という気持ちになってくる。

見かねた友達から「唐梨さん、ボールのこと怖がってるでしょ!ボールは友達だよ!」とアドバイスをもらったこともあるけれど、内心「そんなキャプテン翼みたいなこと思えるかーーー!こちとらそう思えないから苦労しとるんじゃーーー!」と反発していたくらいには、体育に対するネガティブイメージがものすごくある。

だが、しかし。あまり認めたくはないが、この体育のおかげで醸成された良い部分というのも確かにあるのだ。特にメンタル管理において。その最たる経験になったのが、運動会の徒競走である。




なぜ徒競走がメンタル訓練に良いのか

以下、なぜ徒競走がメンタル訓練に良いのかについて述べる。


物理的にも置いていかれる

当たり前だが徒競走というのは、誰が早くて誰が遅いのか、その差はどれくらいあるのか、などが一目瞭然だ。全てが公に暴露され、白日の下に晒される。何も隠しだてができない。

その裏表のないストレートさ、分かりやすさ、まっすぐさこそが、徒競走という種目の魅力な訳だが、これは苦手な人からするとデメリットに変わる。

よく比喩として「勉強で置いていかれる」などと言うが、徒競走というのは実力面だけでなく物理面でも置いていかれるので、二重でけっこうメンタルにくるのである。

どんなに「待ってよぉぉぉ」と言っても誰も待ってなんてくれない。どんどん先に行ってしまう。しかもそれが周囲の観客にも目に見えてバレバレ。かなり、すごく、とても、めちゃくちゃ惨めである。


万年ビリだった私

そんな私は50メートル走が約10秒だった。かの有名なウサイン・ボルト選手が100メートル走9秒58であるから、私が走っている間にボルト選手は往復できるわけである。いかに私が鈍足か伝わるだろう。

なので、私の徒競走の成績はほぼほぼ万年ビリであった。つまり、毎年必ず、実力面だけでなく物理面でも置いていかれるメンタルの修行をしていたわけである。

正直、憂鬱だった。だって置いていかれて恥を晒すと分かったうえで、取り組まなければならないのだから。

しかし、それを毎年繰り返す中で、小学生の私は気づいた。そう、ビリが貢献しているということに。


ビリは貢献している

なぜビリが貢献しているのか?それは、相対的だからである。うちの小学校の徒競走は6人1組だったのでその例でいくと、6位がいるからこそ1位が存在するのである。

どういうことかというと、極端な話、みんなが全く同じタイムだったとして、全員1位になったとしても、その1位の価値ってそんなにない。1位というのは、他に誰も1位がいないからこそ1位たるのであって、1位の価値は唯一無二性にある。差が発生してこその1位なのだ。

そういう意味でいくと、ビリな6位の私は、1位の価値の上昇にめちゃくちゃ貢献している。なぜって、私という鈍足の存在がいるからこそ、1位の人の足の速さの差が際立つのだから。

また、ビリな6位の私は、5位の人のメンタル安定にも貢献していると思っていた。なぜって、6位の私の存在のおかげで、5位の子に「良かった、ビリじゃなくて」「この子よりはマシ」と慰める材料を提供できるのだから。


ポジティブシンキングの訓練

とまぁこのように、屁理屈な気もするが、私は勝手にそう解釈することにしていた。この相対性の仕組みに気づいてからというもの、憂鬱な徒競走も、少しは「ふっ、私が裏で貢献していることに1位の子は気づいちゃいまい」と勝手に悦に入ることで、メンタルを回復させられるようになったのである。

「確かにビリは嫌だけど、でも、私のビリで1位のあの子の笑顔が輝くならまぁいいか」
「もしかしたら1位の子は、運動会で親にかっこいい姿を見せたいと思っているのかもしれない。反対に、もしかしたら1位の子の保護者の方々は、子や孫の勇姿を楽しみに見に来たのかもしれない。そう思えば、ビリも世界平和に一役買ってるんじゃない?」

そう思えるようになった。これを外に出して言うとただのイタくてヤバい奴だが、心の中で一人勝手に思うだけならいいじゃないか。誰にも承認欲求なんて求めてないし?ビリで卑屈になって他人を妬むよりよっぽど良くない?というか「ビリになる甲斐があるってもんよ」くらいに思わなきゃ、ビリなんてやってられないよ?と、子ども心にいろいろな感情が渦巻いていたのだった。

ここで一番伝えたいことは、物事をどう捉えるか、それは自分次第ということだ。屁理屈かどうかは置いといて、「ビリって最悪!」と思うこともできれば「ビリって社会貢献!」と思うこともできるわけである。

このポジティブシンキングの訓練は、間違いなく運動神経が壊滅的だったからこそ身についたスキルだ。これで運動神経抜群だったら、大人になっても豆腐メンタルのままだったろう。だって「できないこと」「落ちこぼれること」「憂鬱なこと」に向き合った体験がすっぽり抜け落ちて大人になるのだから。いわば心のワクチンを摂取したようなものだ。

その意味では、運動神経皆無の自分もけっこうイケてるのでは?と自己愛も少しは生まれるが、この体験の価値が腑に落ちたのは大学生以降なので、当時の私はなんで運動でこんなに苦労しないといけないのか、と思っていた。

このように「当時はとてもそうは思えないが、今振り返ればこそ良かったと思える」ことは往々にして人生にあるものだ。まさに禍福は糾える縄の如し。順位のみならず、人生もまた相対的である。


ブービー賞だった時の疑問と葛藤

けれど反対に、この自分がビリになったことによる気づきは、自分がビリにならなかった時のアンチテーゼにもなった。

ごく稀に、私はビリではなくブービー賞になることがあったのである。日頃はビリがデフォルトなものだから、たとえブービー賞でもそれはもう嬉しかった(このあたりお幸せな脳みそをしていると自分でも思う)。

だがしかし。

ここで私は思い当たる。当然ながら、私がビリじゃないということは、代わりにビリの人がいるということだ。そしてそのビリの人は、私がビリの時に抱いていた恥ずかしさ、やるせなさ、諦め、といった負の感情を抱いている可能性が高いということだ。

ということは。

ビリの人もいるのに、目の前でビリじゃない喜びに浸っていいのだろうか?ビリじゃない価値を受け取っていいのだろうか?

と新たな疑問と葛藤が生まれたのである。ここまでお読み頂いた中には「めんどくさい小学生だな」と思われる方々もいるだろうが、疑問に思っちゃったのだから仕方がない。徹底追究あるのみである。


勝負とはそういうもの

そして私が出した結論は、でもそれでいいのだ、ということ。1位の人は誇らしげに喜ぶ、ビリの人はやるせなさを感じる、それで正解なのだと。

少し前に「順位をつけるのは子どもには残酷だから、かけっこはみんなで一緒にゴールして、みんなが一番になりましょう」という方針が持ち上がり、世間で物議を醸したことがあった。

自分がビリだったからこそ思うが、私はこれに反対派である。せっかく輝ける1位の人が機会損失じゃないか、という理由ももちろんあるが、私にとってはそれがメインの反対理由ではない。真の反対理由は、ビリに気を遣われる方が、ビリを放置されるより、よっぽど心がいたたまれないから、という極めて利己的な理由である。

「唐梨さん、今回もまたビリだったの〜?毎年更新してるね」
「やったーーー唐梨さんがいたからビリを回避できたぞ!わーい!」

と言われる方がまだマシであり、

「みなさーん!唐梨さんがビリで可哀想なので、みんなで手を繋いで一緒にゴールする方針に変えましょう」
「(本当はすごく嬉しいけど、目の前にビリの唐梨さんがいるから、喜ぶのは我慢しよう)」

と言われたり思われたりする方が、よっぽど針のむしろである。あくまで善意からきていることは本当にものすごくありがたいのだが、気遣いという名の暴力に変貌することもあるのが、競争社会のデリケートな部分である。

それに、メインの理由ではないとはいえ、やはり1位の子の機会損失もよろしくない。だって、仮に徒競走をみんなで一番にしたとして、同じことを勉強や読者感想文や歌でもやるだろうか?

徒競走はビリでも、読書感想文はいつも優秀賞という子もいるかもしれない。反対に、徒競走は1番でも、勉強は苦手な子もいるかもしれない。ここでもやっぱり相対的だ。

このように、何をもって平等となすかは、切り取る観点によって変わる。だが少なくとも私は、勝負とは明暗がはっきり分かれるものだ、それが勝負というものだ、と思う立場だというだけの話だ。


補足

最後に、上記の自論の補足をさせて頂く。


努力を忘れてはならない

お気づきかもしれないが、上記の内容は

「どうしたらビリにならずに済むだろう」

ではなく

「どうしたらビリのままでもメンタルを快適に保てるだろう(ビリであることは構わない)」

というための戦略である。現状を変えるのではなく、現状を受け入れるためのコツだ。この若干の横着さ、ふてこさに私の性格が出ているが、やはり努力は必要だ。

私がこの自論でやり過ごしたのは、脱ビリの努力をしたところで、あまり人生に影響がないと思ったからである。だが、たとえば仮に私が陸上部だとしたら、努力は絶対いる。ここを履き違えないことが大切だ。


引き換えに失う自尊心に要注意

こちらは、この理論の副作用の話になる。

それは何かというと、ビリを受け入れる理論なので、どうしても自尊心は失いやすくなるということ。諸刃の剣なのだ。

現に私も、せっせと早起きして我が子のために運動会のお弁当をつくる親を見て、「運動会に見にくる甲斐がない娘でごめんね〜ははは」と自虐的に言っていたくらいだ。

自分で自分を笑えるのはメンタル維持において重要な要素だと今でも思うが、行き過ぎるとピエロ化してしまうので要注意である。

ではどうすれば良いかというと、ピエロが舞台を降りるとピエロの仮面を取って、笑われ者でもなんでもない普通の一般人に戻るのと同じように、私たちも「仮面を取る」代わりとなるスイッチを自発的に持つことが大切だ。ダラダラと丸一日ピエロのままで居続けない。

落ちた自尊心は、どこかで上げる経験がいる。いや、「上げる」というより「戻す」という方が適切かもしれない。元々は自尊心は誰しも必ずあるのだから。少なくとも0歳児の時はあったと思うのだ。それが、意識的にか無意識的にか、成長と共にどこかで落としてしまっただけの話。

その自尊心を上げる分野がどこなのかは、個々人による。前術のたとえ話を使うと、徒競走の努力があまり自分の人生に意味をなさなければ、歌や作文で自尊心を上げればいいだろうし、やっぱり陸上部で徒競走の努力が必要ならば、ビリでも向き合って改善すればいい。


まとめ

長々と書いたが、要は自分の人生がより良くなる考え方ならばなんでも良いと思っている。それぞれの場面で、それぞれに合った最適な生存戦略を使えるように、私も日々精進していく。


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