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元リストカッターの死生観(2)

アダルトチルドレン、障がい者の『きょうだい』としての生きづらさ、リストカット(自傷行為)がやめられない、『死』への恐怖といった悩みを抱えた方へ、また、その家族や友人の方へ

私の体験や感じたことを通して「ひとりじゃない」「私もやめられるかもしれない」「不安が和らいだ」など希望につながる何かを感じていただけることを願い

今日は、まずは
死生観をテーマにする私のルーツここにあり、という話をします。



ずっと気持ちの行き場所を探していた。


子供ながらに
この家の誰も『悪くない』ことを知っていました。

「 あいつさえ居なければ 」

階段から突き落としたい衝動にかられる兄さえも。


自己紹介:私と彼のこと👇
noteでのアウトプットを4年前から続けながら、過去起きたことや
いまと向き合い、私は前を向いて生きていけるようになりました。
noteはその向き合う過程の記録ですね。
よろしければ覗いてみてください😊


お母さんも、お父さんも、にぃちゃんも、ばぁちゃんも、じぃちゃんも

きっと誰も悪くない。

だけど…

私のこの扱いは??
この怒りは??

どうしてやられっぱなしなんだよ??

あいつさえいなければ!!

あいつさえ!!

あいつさえ…




( そんなことを思う自分はダメだから )


「 あ、そっか
  死ねって思う自分が死ねばいいのか 」





頭のネジが飛んでしまった日

こう思った瞬間が本当にあり(中学2年生でしたね)

あ、

と、思ってしまいました。
パズルのピースがハマったような。
頭のネジが一本飛んだような。

部屋でひとり、この時、高笑いをしていました。

精神病の発症がこの日だったと言われても納得するようなそんな瞬間でした。

明確に『自殺』を意識するようになっていった私は、何食わぬ顔で『中学生』をしていましたが私にとって『死』が身近で『』を常に意識のどこかに隠し持って生きている

当時の私にとって『死』を隠し持ち、時に浸るその時間は見たくない、感じたくない現実からの逃避行動だったことは今になって思うこと。

そこから5年やそこらが経った頃、どうしようもなく病んだ引きこもりの自分になっているわけですが。

(「死にたい」なんて思っていないのにただなんとなく、首を傷つけるような、そんな精神状態になっていました。)

生きること
死ぬこと

それは神の領域です。
神が決めること。

元リストカッターの死生観(1)より


『死』へのとらわれが楽になった考え。体験から感じたこと。


①生きる死ぬを決めるのは神

それなのに
神の役を演じようとするから不具合が生じる

私は人だから

「生きるも死ぬも神様が決めるんだ」
「それに従う」

というシンプルな考えに納得したこと。


②神様は間違いなく私たちに生きてほしいと思っている

だから、生きよう!という意欲を持って
生き始めたら、とんとんとうまくいく。

なんなら神様に応援されている気にもなる。

「生きようとすれば、こんなに助けてもらえるんだ」

そんな感覚になれたこと。


③仲間の死を受け入れる体験

同じ時期に依存症の治療に繋がり、入院生活を送った仲間の死が私の死生観に大きな影響を与えました。

戸惑いも深い悲しみも、自分がこれからを生きていく力に。


これら3つがあわさり、私の死生観があります。


メッセンジャーとして生きる

生かされ生きる意味活かすことだと、今回の死生観をまとめることで再認識することができました。


「俺は重症だったから、体験談のレアケースとして生かされた」

以前、そういえば私を財産もち(笑)だと言ったKさんが
そんなことを言って笑っていました。

まさに私もこのレアケースな人生を、今続けている活動を通して活かし、メッセンジャーとして生きていきます!



ワクワクいこう♫



このブルーベリーは、お掃除に行っているお客様からいただいたもの😊

最初はそのまま✨次はヨーグルトにあえて💕

もともと冷凍ブルーベリーを買うくらいブルーベリー好きですが

生の旬の物は本当に美味しい😋

生きていればこそ( *´艸`)ね!

※神という言葉を使いましたが、特定の信仰をもっているわけではありません。神社で手をあわせる感覚の延長とでも言いましょうか「目には見えない大きな力」が働いていて、守られている。そう思うことで、私は楽になりました✨


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