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5年という節目に。

書きたいなと思ったから書くことにする。顔出してるし名前も出てるしこの時の気持ちを外に出すのちょっと勇気入りましたが、書きたいから書けばいいじゃん、と心の声が聞こえる。これは私の経験と成長の記録。感じ方や考え方は人それぞれです。わたしは夫のうつ病のおかげで、良い経験をさせてもらい、大切なことを教えてもらった。夫婦は運命共同体。夫が経験することを、妻もまた違った形で経験することになる。

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2017年3月12日 午後18時すぎ


私たち夫婦は向かいあってダイニングテーブルに座っていた。生後半年になる息子はおっぱいを飲みすやすや眠っている。夫が心療内科から帰宅した。先生に話したこと、先生から言われたことを話し続けていた。夫は、今まで一度も見せたことないくらい声をあげて泣いていた。その姿に私の心はかなり動揺していた。私はしっかりしなくては、と思ったのかもしれない。声を出して泣けなかった。しかし涙がとめどなく流れ続ける。止まらない、止めてはいけない。泣きなさい、そう言われている気がして、二人でずっと泣き続けていた。
ティッシュを取ろうと顔をあげ、黙って夫の顔を見ると、その後ろに夜景が見えた。私はカーテンを閉めるのを忘れていた。当時から数えて約2年前にこのマンションに引っ越してきた。初めて見学で訪れた時、「どうぞ」と60代くらいの男性が温かな表情で出迎えてくれた。部屋に入るとリビングに亡くなられた奥様の仏壇があった。外に目をやると青空がとても綺麗だった。目の前に高い建物はなく、眺めのいい部屋。あ、ここの家にしよう、直感でそう思った。今でも思い出すのは、なぜか泣く夫の向こう側にあった夜景。きらきらとした光景が、昨日までとはまるで違ったように見えた。この胸に抱いていた明るい未来が、ガシャンと音を立て崩れおちた。そういう時ひとは言葉を失うんだ。言葉にできない。本当にただ泣くしかなかった。


冬眠に入る


夫はこの日から冬眠に入った。3月、これからの春の訪れに人々は心が弾む。私たちはその年の春を春として感じられなかった。まるで季節が逆戻りしているかのようだった。
夫は朝も、昼も、夜も関係なく、眠っていた。今夫は、とにかく眠ることと休むことが必要だった。日中でもカーテンを閉め切った部屋、たくさんの薬、夫を理解するのには時間が必要だった。心療内科の先生から「奥さんにも話しておきたいことがあります」と言われたのは、夫が「明日から会社にいかなくていいです。」と先生に言われた2週間後のことだった。私は息子を抱えて初めて診療内科に行った。診察室は患者でいっぱいで、待合室の席はほとんど埋まっていた。
空いているものだと勝手に思っていたから、その人数の多さに驚いた。心療内科には心の病を抱えた老若男女、年代も幅広かった、一見みんな普通に生きているように見えた。しかしそれぞれここに来なければならない、目に見えない何かを抱えている。私は先生から何を言われるのだろうかと、ちょっとビクビクしていた。隣の診察室の部屋から若い女の子の声が聞こえた、聞いてはいけないような気がする、でも聞こえてくる。女性はずっと喋り続けてた。何を話しているかまで聞こえなかった。よく見ると、きちんとドアが閉まっていなかった。隙間から声が漏れていた。夫は、自分の気持ちが分からなくなり、うまく言葉にできない状態だったので、この子はすごいな、ちゃんと喋れるし、しゃべりたいんだなと思った。そして出てきたのは10代と思われる、学生の女の子だった。

夫を受け入れられない

私たちが呼ばれ、家族で診察室に入った。先生は、表情変えずに淡々とした口調で私の目を見て話し続けた。先生がこの日私に伝えたかったことは「夫への理解」だった。ずっと眠っていること、休んでいること、家にいても何もしないこと、それを理解してあげてほしいと。今は必要だから薬を飲んでいること、奥さんもそれを分かってあげてください、と言われた。私はその場で「はい、分かりました。」と答えたものの、その後、毎日夫のいる生活、寝ている夫、何もしない夫に、イライラしていった。産後ということも重なっていたと思う。現実は、そう簡単には受け入れられるものではなかった。月日が、時間が必要だった。その間、何度か夫とぶつかった。喧嘩をした。これは私の未熟さゆえに起きたことだったと思う。理解しようとするも、どうしても「うつ病の夫」ということが受け入れ難かった。きっと何かの間違いだ、違う!と信じたかったのだと思う。でも、頭が回らない、まともに会話できない、字が読めない、封筒に住所が書けない、手が震える、記憶が曖昧、涙もろい、心が不安定、塞ぎ込む、何も手が付かない・・・そんな夫を見るのが、私はとても辛かった。辛くて何度もひとりで泣いた。しかし夫の前では泣けなかった。そのうち、ある時限界がきて、声をあげて泣きたくなった。しかし夫がいる。私はいつもお風呂場で泣いた。シャワーを頭からかけて髪を洗いながら泣いた。ザーザーお湯とともに涙が流れていった。すっきりした。

母の強さ

母に話したのは1ヶ月後のことだったと思う。母は静かに黙って聞いていた。そして二人で泣いた。お母さんの前では、私はわんわん泣いた。「そうか、そうなのね。分かった。」「状態はどうなの?」「薬を飲んでいるの?」「お金は?」母はすごく冷静だった。母は否定せずに、受け入れてくれた。そのことは私の心の救いとなった。あの時もし否定されたり責められていたら、その後の私の行動が違っていたと思う。母の落ち着いた対応と言葉に、私は安心したのだった。「やっぱりお母さんに話してよかった」そう思った。それから私は、息子を連れて毎月1週間ほど実家に帰ることにした。帰省のたびに母へ夫の近況報告、最近の様子を話した。
ある時、母から「誰でもいいから、SOSを出すこと。絶対に二人だけでなんとかしようと思わないこと。」「____君に対して、こちらからあれこれ質問攻めしたり、不安にさせるような言葉かけないこと、向こうから自然と話してくるまで、話したくなるまで待つこと。」と言われたことがあった。
確かに、私は夫を攻めていた「なんでこうなったの?」「どうして__しているの?」「どうしてこの薬を飲まなければいけないの?」「これから私たちどうなるの?」って。母から言われハッとした私は、未来の不安や恐怖から夫を攻め続けていたことに気づいた。こんなことになったのも、こんな気持ちにさせられたのも、ぜんぶあなたのせいだ!と、攻めずにはいられなかった。攻め続けられていた夫は、心が苦しかったと思う。妻にそんなこと言われても、今の自分ではどうしようもなく、何もできない状況で、男として情けなく、悔しくて、申し訳なくて、時々死にたいという気持ちになったことがあったと(後になって)言っていました。

覚悟

ある日、診断されてもうすぐ1年となる少し前だったと思います。何がきっかけだったか今はもう覚えていませんが、私のなかで“ある覚悟”が生まれたのです。
それは「変わるのは夫じゃない、私のほうなんだ」ということ。そして私は、今の夫を丸ごと受け止める決心をしたのです。それは夫には内緒で実験でもありました。それまで夫が変わることを強く願い、あーだーこーだと文句を言い嘆き続けていたのですから。しかしその方法では一向に良くなることもなく、喧嘩の原因にもなっていました。だから、私が受け入れる覚悟もって行動したら、夫は一体どのように変わるのだろうか?それを見てみたかったのです。私が変わればきっと何かが変わるかもしれない、私はそう信じていました。
①文句を言うのをやめました。②攻めるのをやめました。③うつ病の話題を出すのもやめました。1ヶ月後、夫の心の中で何かがゆっくり変わり始めるのを感じた時、私は夫に打ち明けました。あの夜、台所で夫婦ミーティングが始まりました。
夫が私に言いました「りえちゃんの態度と言葉が変わったのに気づいていたよ、攻められることが本当にとても辛かった・・・」と話していました。私は夫に泣きながら謝りました。そして確信したのです、変わるのは夫ではない、この私なのだ、ということを。
このことを母にも話ました。母はわたしに言いました、「よく気づいたね、すごいよ。りえは、強い子だ。耐える強さ、変わろうとする強さがあるね。それはそう簡単にできることではない。」と。この日を境に、私は夫への理解に努めていきました。

長くなりましたので、この辺りで一旦おしまいにします。続きはまた今度にいたします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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