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【戦う読書】


 読書する姿勢というのには 大別して「娯楽(癒し・現実逃避)」「勉学(学習・探求・研鑽)」がある。

 大衆の多くは庶民的な暮らしのなかで 生活の質の向上を求め、その方策の一つとして読書している。

 そのため結果として 成人以前、成人なりたての学生時分は「勉学(学習)」に比重を置き、 社会人となった暁に ストレス解消として「娯楽」に走る傾向がある。

 もちろん学生時分に「娯楽」、社会人に「勉学」も少しは必要だし それ目的で読書する者もいるが、それは趣味程度の余力に過ぎず、必須ではないため 比重で考えると前述が主であろう。  

 いずれにせよ 読書は、生活に潤いを与える程度 である。

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 人はいつから 「闘争」をやめてしまったのだろう。

 闘争は文字どおり他者と戦い争う意味ではない。世の矛盾に対峙するおのれとの戦いである。

 やめてしまうといってもいい。

 人に生まれて ある程度 学習を積んだ後、少なからず 世の理不尽に対し 疑問が生じるものと思われる。

 けれども その闘争心を持続できる人間は ほんの僅かだ。

 それは大衆が大衆に迎合しているのが主因だろう。圧倒的多者が諦め尽くした 大衆の仲間入りをしている現状に対し 同調圧力に屈服し また自分もいつしかその大衆と肩を並べてしまうのである。

 べつに責めるつもりはない。そうせざる得なくしている社会システムに問題がある。

 しかし、希望はある。そのほんの僅かながら生き残る「闘争者」にわたしは一縷の望みを託したい。

 わたしは「戦う読書」が好きだ。読むほうも、書くほうも気力と体力がいる。読み終わるころにはヘトヘトになってしまう「怪物」もあるが それでも また戦いを挑みたくなる。逃れたくても この歪んだ社会から 目を背けられないのだ。

 音楽や映画、他の芸術もそうだろう。

 怒り、嘆き、悲しみ、抵抗、、 戦うそれは 知的好奇心を満たしてくれる 刺激に満ちた「挑発してくるジャンル」と格付けできるかもしれない。

 例えば 寺山修司であったり町田町蔵であったりするかもしれない。ゴッホやランボー、吉本隆明、サルトルであったりするかもしれない。

 こてんぱんに打ちのめされる度、 わたしは強くなり また強く願うのだ。

 「  もう一度! 」

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