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解説 偶像から離れよ(前編)(第二説教集2章1部) #74

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)


※第1部の解説は2回にわけてお届けします。
※第2章の全体像についてはこちら:

第二説教集第2章に入ります。まず第1部の解説です。テーマを聖句で言えばこうなるでしょう。

皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべての者を造られた方です。(使徒言行録 14章15節)

第1部のポイントは次の6点です。解説前編の今回は①~③についてになります。

①はじめに~第1章との関連とこの章の目的
②偶像崇拝が行われていることへの非難
③偶像という言葉の起源
④旧約聖書における偶像崇拝への戒め
⑤新約聖書における偶像崇拝への戒め
⑥まとめと結びの短い祈り

第二説教集の第1章が「教会の使用について」であったのですが、この第2章の冒頭ではそれが振り返られます。

神の家である教会堂は聖書によって定められた場所です。そこでは神の生ける御言葉が読まれ説かれて耳が傾けられるべきであり、神の聖なる御名が人々の祈りを通して唱えられるべきです。(略)神の御恵みのなかにある教会堂は神への真の奉仕のために、信仰深い神の僕たちによって使用されるところです。

この上にたって、偶像崇拝が忌み嫌われるべきものとしてあるということが述べられます。

そこにあるべき敬虔さが信仰深い人々の心にかき立てられるのはこの神の神殿で自らの姿勢について考えることによってであり、決して外面的な儀式や、この神の家である神殿にある高価で豪奢な飾り物によってではありません。(略)今のこの時代の腐敗のなかで、教会堂にはおびただしい数の神を象ったものが持ち込まれてしまっています。(略)教会堂の隅々が豪奢であり金や高価な宝石できらびやかであるというところに、敬虔な心を揺さぶられてしまっている人も多くいます。

教会堂は神に祈りを捧げる場であり、そこに豪奢な装飾は必要ない。ところが豪奢な装飾があって教会堂が壮麗であるからといって信仰を向けようとする者がいる。現代にも通じるテーマです。この章では特に「神に似せたもの」を拝むことへの戒めが説かれるのですが、大筋としてどのように話を進めていくのかが述べられます。

そのような淫らな行いや大いなる過ちを戒めるべくみなさんにその根拠としてお示しするのは、第一には旧約聖書はもとより新約聖書にもある神の聖なる御言葉です。第二にはいにしえの聖なる教父たちや博士たちの告白です。(略)第三には聖像や偶像そのものや、教会を金や銀や真珠や高価な宝石でけばけばしく飾り立てることを擁護しようとする論説や主張への論駁です。これによってこの問題についてのお話は完結します。

これが第2章全体の骨組みです。それぞれ第1部から第3部までにあたります。これにいわば肉を多くつけて話を進めていくということになります。ただしその前に「偶像」と「聖像」という二つの言葉の語源にさかのぼっての話があります。なお、ポイントとなるところだけを言えば、原文では「偶像」が "idol" であり、「聖像」は "image" で、「似姿」はラテン語では "simulachra" となっています。

わたしたちは一般的に、人物であれそれ以外のものであれ、それに似せて作ったものを偶像ではなく聖像と呼んでいます。しかし聖書では偶像と聖像というこの二つの用語が特にこだわりなくほぼ同じものを指すために用いられています。(略)これはギリシア語で偶像を意味する「エイドローン」という語と、ラテン語で似姿を意味する「イマーゴ」から取られているものですが、この両者とも聖書を翻訳する際にはこだわりなく英語で用いられています。(略)聖ヒエロニムスはそれと同じところにラテン語で英語の「似姿」にあたる「シムラクラ」をあてています。

まるで言語の授業を受けているような感じさえしますが、これによってここではっきりさせたいのは次のことです。

わたしたちがどちらを用いようが、あるいは現代の英語にはないにしても聖書にはあることなので両方とも用い、その両方が同じ意味を持つことになってしまおうが、問題とはなりません。なかには、無知の人々に信仰を説くにあたって、多くの意味を持った言葉であるのほうが都合がよいとして、それらを巧みに操った者もいます。(略)聖像を置くことが教会堂や神殿で公に許されてしまいますと、それらはこれからさきも崇拝されて偶像崇拝が行われることになってしまいます。

言葉を巧みに操ることによって偶像崇拝を正当化する者もいる。その危険に気付くべきである。そう説かれています。これこそ現代にも通じることであるように思われます。このあと、聖書のなかで偶像崇拝を戒める箇所の引用が続きます。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第1部「偶像から離れよ」の解説(前編)でした。次回の投稿はこの解説の後編になります。

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