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「かける」と「かける」(かける、かかる・03)
かけるとかける
かけるとかける。
「かける」と「かける」。
上のフレーズは「AするとAする」と読めば、「Aすると(その結果)Aする(ことになる)」とも、「「Aすること」と「Aすること」」とも読めます。
いずれにせよ、前者と後者は別物でなければなりません。
*
かける、掛ける、懸ける、架ける、賭ける、欠ける、駆ける、翔る、駈ける、掻ける、書ける、描ける、画ける
「かける」が、「かける、掛ける、懸ける、架ける、賭ける、欠ける、駆ける、翔る、駈ける、掻ける、書ける、描ける、画ける」と、「書ける」のであれば、「かける」は多義語であり、さらに同音異義語が複数あるという理屈になります。
私は掛詞が好きです。
たとえば、駄洒落とオヤジギャグは掛詞の別称であり蔑称でもあります、という感じに好きなのです。このネタをこれまでに何度つかったことか。
掛詞をして文を書く場合には、多義語か同音異義語かは区別しません。音が同じであったり似ていれば、さっそくつかいます。
ようするに節操がないのです。
かけるとかける*
かけるとかける。
「かける」と「かける」。
掛けると書ける。
「掛ける」と「書ける」。
これは「掛詞をつかうと文が書ける」という意味にもなりえます。
たとえば、橋をかけるには、何かの端っこと、それとは別の何かの端っこが必要ですから、「端と端のあいだに橋を架ける」と掛けると書ける、というわけです。
かけるとかける**
かけるとかける。
「かける」と「かける」。
欠けると書ける。
「欠ける」と「書ける」。
欠けると書ける、というのは本当です。欠けていると書けている、とも言えます。「欠けているから(その結果として)書けている」という意味です。
いまは真面目な話をしています。例を挙げます。いま頭にあるのは古井由吉の作品です。
*
古井由吉の『水』という短編では、「私が省かれている」、つまり「ない」、あるいは「欠けている」という書き方がなされています。
「ない」状態を引きずりながら作品が成立しているのです。
欠けているから書けている。
欠けていると書ける。
欠けると書ける。
*
おなじく古井由吉作の『杳子』は、杳子をタイトルにし、杳子という文字で始まる小説であり、あれほど杳子という名前が何度も出てくるにもかかわらず、視点的な人物である「彼」の名前(イニシャル)が「ない」ままに、かなり長く引きずられる形で作品が成立しています。
*
それだけではないのです。
古井由吉の作品では、小説の冒頭やその近くに失調があって作品が書かれていきます。この「失調」は、たとえば『杳子』でも何度かもちいられている言葉なのですが、古井は「失調」に意識的な書き手だと推測できます。
失調とは、たとえば次のような形を取ります。
発熱、うなされる、身体の不調、疲弊・疲労・消耗、渇き・脱水、入院・闘病、時間や方向感覚が失われる・迷う、誰かが亡くなる・葬式・法事、入眠・寝入り際・寝覚め・意識の混濁や喪失、旅。
こうした「欠ける」「失う」「無くなる」「足りない」「少ない」「ない」という出来事や事件があり、それが切っ掛けになって、狂いが生じます。
古井由吉の小説では、その狂い(失調)を引きずりながら、作品が進行し展開していくのです。
上で「旅」がありますが、旅とは日常が失われ、それが継続していく時空と言えます。
太古や大昔や昔は(大ざっぱな言い方でごめんなさい)、旅や移動は命がけの行動であったことを考えると分かりやすいと思います。旅には登山や山歩きもふくまれます。古井の小説でよく出てくる設定です。
*
欠けているから書けている。
欠けていると書ける。
欠けると書ける。
以上の古井の作品に見られる身振りを蓮實重彥的な言い回しで言うと、こうなります。
「ない」であって、「ない」でない。
「ない」であって、「ある」である。
欠けていて、欠けていない。
言葉が欠けていながら、言葉が書けている。
何かが欠けていながら、作品が書けている。
「ない」のに、「ない」ではなくなってしまう。
「ない」のに、「ある」になってしまう。
欠けているのに、書けてしまう。
ところで、蓮實重彥は言葉を掛けるのが好きではないようです。
言葉を掛ける芸よりも、言葉による宙吊り芸の達人であり、そしてなによりも言葉の振付師だとにらんでおります。
というか、宙吊りにして着地させまいとする身振りは、この書き手の芸であり、至芸であるとさえ、私は言いたいのです。
なぜ至芸なのかと言いますと、この書き手は「着地させまい」を、「いまここではないどこか」にあるものとして指ししめすのではなく、「いまここにある」言葉に演じさせているからにほかなりません。
演じさせている、振りをさせている――この書き手は「振付師」(おそらく表現者ではなく)なのです。
言葉の振付師を演じることによって、この書き手は「着地させまい」という言葉が「着地する」のを周到に回避していると言えます。これを至芸と言わずに何と言えばいいのでしょう。
(拙文「であって、ではない(反復とずれ・03)」より)
*
それには「二」が統禦する「主題」群に、いま一つの系列が介入することが必須である。それ自体としては非=時間的な構造におさまっている「主題」群が、なお時間的な言葉の連鎖をも統禦しうるとしたら、それは、すでにその「主題」論的な機能に言及してある「反復」が、第一、第二の系列の共時的な循環性を、継起=発展の通時的な運動へと変容せしめる契機となっているからである。茶屋の二階の座敷の机の上で、「類似」、「比較」、「選択」の主要モチーフが時間的に「反復」され、その運動が「快」=「不快」、「緊張」=「弛緩」、「上」=「下」といった「双極性」の系列へと発展して行ったように、「反復」は、『暗夜行路』と呼ばれる言葉の磁場に交錯しあう「主題」の諸系列に、一つの方向を指し示す役割を果たしている。したがって「作品」は、読む意識がその有機的な連繫ぶりに触れえた瞬間のみに、構造としておのれを顕示することになるだろう。読むとは、その一瞬を逃さず不意撃ちするという、敏捷さが問われる冒険なのだ。
(蓮實重彥「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・pp.22-23)
上の引用文での「反復」という言葉のつかわれ方を見ていると、蓮實重彥が言葉の表面の類似ーーこの類似が引用文の「類似」とは似ても似つかぬものであるのは言うまでもありません(おそらくここには決定的な差異と差違があるのでしょう)――、および言葉を掛ける行為に関心を示さないのが分かるような気がします。その思いは、以下の引用文を見ると確信に近いものになるのです。
こんなふうにして「掛ける」文章を「書ける」のは、蓮實しかいない気がします。
眩暈は、したがって、生の限界点において死の可能性と戯れることだということになろうが、フーコーが、ロブ=グリエが、バルトが、そしてジル・ドゥルーズがそれぞれ異なった領域で飽きずに問題にしていたものは、まさにそうした限界体験であったのだ。
だが、いまかりに、フィリップ・ソレルスの用語をいささか拡大解釈してそれを限界体験として定義してみたところで、「現代フランスにおける知の相貌」はその全貌をいささかも顕示することなく、たえず現在として時空をみたしながらも人目に触れはしない。それはちょうど、安岡章太郎の小説でしばしば出逢うことになるあのトリトメのない、どこかガッカリするほかないような、もはや存在や事物としての輪郭におさまろうとしない湯気のようなものが横溢してあたりにたちこめているのである。そのときわれわれが拠って立つべき基盤となるものは、たとえば藤枝静男における大地の表情さながら強固な平坦さに還元されることをこばみ、無数の陥没と隆起を頼りなげにくり返しながら、足もとをおぼつかないものにしてゆく。ことによると、現代フランスの知の環境としてある幾つかの言葉たちは、まだ親しく戯れたこともない安岡や藤枝の言葉ともひそかに共謀しながら、ひたすらトリトメもなく、土中の庭のように人目をくらませながら、なおわれわれを犯し続けているのかもしれない。
(蓮實重彥『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房・pp.45-46)
「欠く」が「書く」であるというパラドクシカルなマジック
こうして安岡的「存在」の多くは、避けようとする身振りそのものによって、避けるべき対象と深く戯れてしまうというパラドックスのさなかに生きることになる。
(蓮實重彥「安岡章太郎論 風景と変容」(『「私小説」を読む』中央公論社)所収・p.176)
どうして、こんなことが起きてしまうのでしょうか?
言葉だからです。作家が、書き手が相手にするのは言葉であり文字だからです。
書き手が相手にしているのは、比喩的にも現実にも点と線でしかない文字だからと言えます。現実にある「何か」ではないのです。
現実にある「何か」はいじれません。人の思いどおりになりません。ところが、言葉と文字はいじれます。
あっさりと言いましたが、これは驚くべきことです。
たとえば、現実において山を動かすのは困難であり不可能に近いですが、言葉の世界では容易に山を動かせます。
山を動かそう。
私は山を動かした。
愚公山を移す。
*
言葉と文字はいじることができる――これが、「ない」を「ある」に転じるレトリカルなトリックであり、「欠く」が「書く」であるというパラドクシカルなマジックでもあり、「欠けている」が「書けている」でもあるというデリュージョナルなイリュージョンなのかもしれません。
私には、このトリックとマジックとイリュージョンこそが、文字を手にした人類にとってのリアルなのでありリアリティだという気がしてなりません。
このアプシュルドでシュールきわまるレアリスム、というか超々スーパーなリアリズムが、ファンタスティックなファントムとして人類に取り憑いているのではないでしょうか?
だから、かけるとかけるのです。
掛けると書ける、欠けると書ける、懸けると書ける、賭けると書ける、書けると書ける。
愚公山を移す。
不条理な夢
それでも、書けないとすれば、それは文字を書くのではなく、たとえば小説というもの、詩というもの、文学というもの、作品というもの、ベストセラーというもの、名作というものを書こうとするからでしょう。
いま挙げた「○○というもの」ですが、これこそが文字に欠けているものにほかなりません。
そうした抽象(絵に描いた餅)は、具体的な物である文字のあずかり知らない夢、つまり人の夢と欲望であるという意味です。
たとえば、人は山という文字を動かすことができますが、山というものを動かすことができないのを忘れてしまうと言えば分かりやすいかもしれません。
山という文字(言葉)をつかっていると、山という文字(言葉)が文字(言葉)であることを忘れるのです。その意味では、これもパラドックスなのかもしれません。
山という文字と山というものを混同する(同一視する)ことで成立する、文字という自由、文字という不自由――。
「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なのものだ。だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。「装置」として、「物語」として、不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
(蓮實重彥「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)pp.6-7)
文字に文字以上のもの、文字以外のもの、つまり文字とは別のものを求める――言葉と言葉とは別のものを同一視する(混同する)――のは、いかにも不条理な夢だと言えそうです。
言葉と文字は容易にいじれても現実や思いは、まずいじれないのです。
いじっているのに、いじっていない。
動かしているのに、動かしていない。
夢と似ていませんか? ほら、夢の中では、どんなに駆けても駆けても駆けていないではないですか。書けても書けても書けていない……。
文字を書くことは(言葉をつかうことは)、隔靴掻痒の遠隔操作。掻いても掻いても掻いていない。
自由でいるはずが、不自由である。
山という文字(言葉)をつかっていると、山という文字(言葉)が文字(言葉)であることを忘れる。
忘れないつもりが、忘れてしまう。
忘れない振りを装いながら、忘れる振りを演じてしまう。
話はがらりと変りますけど。
意識的であるつもりが、無意識であってしまう。
自覚的な振りを装いながら、無自覚を演じてしまう。
人間のつもりでいながら、……。
ホモ・サピエンスの振りを装いながら、……。
こうなるのは、別に不思議でも何でもないのです。当たり前なんです。
人間もホモ・サピエンスも、言葉なのですから。名前、名称、レッテルなのです。
愚公山を移す。
大山鳴動して鼠一匹。
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