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精神病棟入院体験記(下)

人間性の喪失

 そこから更に、アカペラの男に加えてまだらボケの女が加入した午前三時から
「看護師さーん!看護師さーん!誰かいませんかー!!誰かいませんか!」
 と小窓を金具で叩いてキンキン声で叫び続ける。私はもう眠れない。

「はぁーいご飯ですよう」
 と持ってくる看護師に対しても、完全に狂った私は
「いやだ、毒が入ってるかもしれない。私を憎んでいる人がいっぱいいるから」
 と部屋の隅で布団をかぶって答えるようになっていた。すると看護師が
「全部食べないと出られませんよう」
 と言って出て行った。机の上にあるのはビニールに入ったパン2個。そこから何故私があのような行動をしたのか、判断基準や思考回路は全く今は理解できないが、あの時は何となく
「全部食べればいいんだ。全部だ。全部で。うん、犬だからちゃんと食べよう」
 と思って私はパンを食べながら、ビニールを一緒に丸呑みした。2個分丸呑みした。食事を回収しに来た看護師に
「全部食べました!」
「そう!!全部食べたの!偉いねぇ!!」
「ビニールも食べました!!うっくくくく!!」
「え、ビニール……ビニール!?ちょっと、ビニールって、2個とも!?ちょっと〇〇さん!ビニール探して!!」
「ある訳ないやろ食べたんやから!!だって全部食べたら出してくれる言うたやん!!ここから出してくれる言うたやん!!偉いやろ!!えらいやろおおおおおおおおおお!!!ひぃぃぃあああああはははははははははは!!」
 
冗談みたいな甲高い笑いが出た。もうどうにでもなれ、と思った。昔ビニール袋を呑んで死にかかった誰かの話を思い出していた。その日出された薬も、完全に興奮状態で、看護師の手を食いちぎらんばかりの勢いで噛みついて呑んだ。コップも食いちぎった。ビニールはその後摘出されたが、私は相変わらずおかしいままだった。
 家族からの「静かにして、おとなしくしてたら出られるよ」と言う手紙にも、指のささくれを全部剥いて血で「理由」と書いて返した。

 昼間はもうどうでもよくなって、カメラに向かって「きっと私は行きずりの発達障害の女が生んだ障害児で、母と父の子はもっと優秀で取り違えがおきたのですよ」「母があの時父ではなく公務員を選んでいたらこんなことには」「子供の頃母が階段から私を突き落としたからMRIを撮るべきなのです」「いいですかここは代用監獄です。ご存じですか関東女児連続殺人事件の冤罪事件を。『〇〇したらここから出してあげるよ』というのは嘘の自白を引き出すためのいわば拷問なのです。それが代用監獄です。それは訴訟で一回負けている」「私は生きていてはいけないそうなので鼻からスプーンを突っ込んでかき回してくれませんか、ノーベル医学生理学賞受賞した偉い人の発見ですよ」「(自殺なんてバカなことを言うな、という看護師に対して)それ木村花さんのお母さんの前で言ってくださいよぉ、自殺遺族の前で言ってくださいよぉ、言えよぉ、言えよおおおおおおおおお!!」
 などと荒れていた。
 夜は夜でカラオケが止まらないのでいい加減発狂して枕、掛け布団、ありとあらゆるものを廊下に放り出して
「うるさいんじゃクソボケえええええええええ!!」
 と怒鳴った。

「ここはペットショップ」

 次第に私はその小部屋をペットショップだと思って、私は売れ残りの何やらわからない醜悪な生き物だと思うようになった。値下げに値下げを重ね、なお買取り手のない、それゆえ社会性もない、このままでは殺処分行の肥大したペットなのだ……と思うようになった。そうだ、イヌだ。なにやらわけのわからないイヌだ。気色の悪いイヌなのだ。外薗先生が描く漫画の「犬神」に出て来るたまにキモイ犬、アレなのだ。
 だからイヌは犬食いしなければならないし、水は床で舐めなければならない。私は箸やスプーンといったカトラリーを放り出し、鼻面をおじやに突っ込んで食っていた。人間の鼻先は短くマズルのようにできていないし、器も深く食べづらい。私のイヌもそうだったのだろうか。ごめんよ。こんなに食いづらかったのだね。ごめんよ。ごめんよ。と言いながら箸で自分の腕を突いていた。流石に牛乳を床にぶちまけるわけにはいかないので、茶を床にぶちまけて一心不乱に舐めていた。止められて茶は回収された。仕方が無いので便所の水を舐めていた。引き剥がされた。
 頓服を呑まされそうになったので先んじて手に噛みついた。血の味がした。薄いプラスチックのコップは歯型の形にぱきりと割れてひびが入った。他病棟の偉そうな看護師が来るたびに私は唸っていた。今はもうできないが、あの当時は確かに「唸る」と言うことが出来ていたのだ。掛布団だけ部屋の隅へもっていって、巣を作っていた。
 私は人間性を完全に喪失していた。自分の名前を忘れていた。自分が何なのかわからなくなっていた。ヒト科の小犬灯火という名前の存在であることも曖昧になっていた。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』や『アンネの日記』などから極限状態の活路を見出そうとしても、人格が破綻しぐちゃぐちゃにかき乱されイヌになってしまった私には何も思い出せないのであった。ただ、ここはペットショップで、人間が定期的にエサを持ってきては笑い者にしていくということしかわからなかった。

 しかし、遂に人間に戻る日、解放の日が来る。ある日、男の方がやけに乱暴な調子で昼間から歌い始めた。乱暴な言葉を――今思えば、私の言葉を学習したのだろうか、それを発しながら、扉をけたたましく蹴りながら間断なくそれを続けた。私はもうノイローゼを通り過ぎてもう神に祈る段階になっていて、徳島にある賢見神社の犬に祈っていた。入浴に迎えに来た看護師たちに
「リンチして殺してください。T山病院みたいに皆さん私を憎んでいるでしょう、殴る蹴るして殺してください。こんな地獄なら死んだ方がいいです。お願いします。お願いします」
「そ、そんな地べたに伏せて何してるの」
「神様に祈っています。死ねますように、この地獄が終わりますように、と」
「それは身を清めてからしようね」
 と言って風呂を終えて尚、男は面白がるように騒いでいた。私はもう泣きながら祈っていた。
「けんみさま、けんみさま、どうかたすけてください。あのものにどうか、てんばつを。わたしをたすけてください。おねがいします。おねがいします。けんみさま。けんみさま。けんみさま。けんみさま」
 その時、ちょうど主治医が回診に来て、この劣悪な環境を知った。その男を担当している病棟の看護師を呼び出し、叱責させた。男曰く、
「嫌がらせでやった」
 そうだった。私は泣きながら
「ここにいるくらいなら死んだ方がましです。後生です。おとなしくしますから!!」
 と泣きついた。医師は外に出ることを承諾した。長い地獄の終わりであった。

ケツ叩き宗教登場

 しばらく安穏として院内で過ごしたところ、急に親しかった女性から声を掛けられた。女性はやにわに花のはがきを並べ始め、私と患者仲間に
「この中から一枚選んで!急いで!!早く早く!」
 とやたら急かした。見ると、聖書らしき引用があった。謎のQRコードもあった。
 私は訳あって聖書に反発がある。まあもらうだけもらっておくか……と一枚適当に選んで部屋に持ち帰るも、書いてあるのは
「ストレスを解消する方法」
 笑止千万。それがわかればこんなところに入院してはいない。そもそも、この警句のような引用文は聖書のどの部分か書かれていない。謎のQRコード。怪しすぎる。私はコードを読み込んだ。世界を救う的なHP。そしてスクロールすると……某輸血禁止のケツ叩き宗教
 頭に瞬時に血が上った。信教の自由は認めるが、私はこの宗教が大嫌いである。子供と親が親権停止しないと輸血できない、ベルトや電線で子供に折檻する、勧誘に子供を無理やり同伴する、学校のカリキュラムを捻じ曲げる、とにかく思い出す限りクソの山。同時に、あのヒステリックなまでに慈善事業かのように立ち振る舞い、優しく近づいて来た女性患者の偽善の顔を見た顔がしてまた「プツッ」ときてしまったのである。はがきは細切れに破られてゴミ箱にボッシュートされた。

 いい加減、私も長期入院を経て苛立ちが募り始めていた。他の患者たちも徐々にお鉢が巡るように突然狂ったり、車いすや精神遅滞の患者の世話を看護師たちがいないとき、こちらを見ていない時に私が行っているという負担に耐え兼ねてストレスが溜まっていた。おまけに、新参で入ってきた高齢者に懐かれて、頼られてしまって世話人になってしまった。大失敗である。この病院のケアマネはどこにいる。何をしてやがる。どう見ても人手不足だ。ここはソマリアか。それとも学級崩壊した小学校低学年学級か。下手に看護師が加わると、普通に未熟児や精神遅滞の患者を「バシッ」とビンタしたり「ドムッ」と鈍い音が立つくらいぶん殴る事態が発生するのでこれも難しいのだ……なぜ私がこんなに悩まなければならない!?
 その時、宗教女が近づいてきて「大丈夫?」などと声をかけてきた。私はつい本音がぼろりとこぼれ出てしまった。
「あなたの勧誘はね、迷惑なんですよ。もう二度と話しかけないで」
 温和な方だ。牢屋の中だったら
「うるせー人殺し宗教!!二度と話しかけんな糞婆!!輸血できなくなって死ね!!」
 とか言っているところである。
 しかしその婆は切れてなんと看護師に私のことをご注進しに行ったのである。もうどうすればいいかわからない。
「あの人に聖書の言葉はもったいない!!はがきを返してもらいたい!」
「聖書の言葉じゃないでしょ?エ〇〇の捏造でしょ?それにはがきはないですよ。捨てたから」
「じゃあゴミ箱から探してください!!(ゴミ箱を漁り始める)」
「私の部屋のゴミ箱なんでね。ビリビリに破いて捨てました」
「じゃあそれを持って来なさいッ!!」
 脳内で「うっせぇわ」を流しながらごみくずを持ってきて、看護師さんを介して渡し早々に御暇した。互いに宗教狂いだがキリスト教は犬が不浄だとおっしゃるので私は嫌いです。アンチクライストスーパースター。

二度と入るかバカヤロー

 翌日、朝食を待っていたらその宗教女がどこか(恐らく幹部)に
「はがきは貼り直して持っているんですけどねえ、ええ!地獄に落ちますよ!!死にますよ!!あれは悪魔ですよ!!」
 と聞こえよがしに言われてしまった。わー俺デーモンになっちまったよー(棒)あんまりな状態に「普通病院内での宗教活動ってのは制限掛かるよな」と入院のしおりを見てみても、何とないのだ、制限規定が。
「アホちゃう」
 呆れてモノが言えなかった。本気で「anti christ superstar」のTシャツの購入を検討した瞬間だった。
 まあ私が悪魔だとしても、未熟児を引きずり回しぶん殴り精神遅滞の女性を首根っこ掴んで引っ張り退院する人間に「お勤めご苦労様です」などと平気で言い薬袋は他人の(!?)ものを使いまわす看護師よりはマシだと思う。ナイチンゲールも遠くなりにけり。

 多少寛解した患者が患者の世話をする、調子が悪くても理由を聞いてくれない。おまけに宗教勧誘もある。二度と来るかこんなとこ。刑務所の方がマシちゃう。

 以上が、私の人生初の精神病棟入院体験記である。


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