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【映画感想】『エスター』:純然たるサイコ・ホラー、その冒頭について

現実的リアリスティック》を強調するための過剰な演出

物語は、ケイト(ヴェラ・ファーミガ)が赤ちゃんを死産で失うシーンから始まるのだが、そのシーンの演出が過剰で、違和感がある。

ケイトは股からは血を垂れ流しているというのに、看護師はそんなケイトに構うこともなく、彼女を乗せた車椅子を押して手術室へと向かう。病院の床に血のカーペットが敷かれる。看護師は、ケイトがつくったレッドカーペットの上を踏んで歩く。

手術台の上に寝かされたケイト。手術室は通常ではあり得ないくらいに暗い。全体的に緑掛かっているような印象を覚える。そこは手術室というより生物実験室であるかのようだ。

直下を地下鉄が走るような轟音が断続して鳴るたびに、照明の光の帯が下方向へと引き伸ばされる。これは演劇的な演出だと思ったし、演劇的な演出として応用可能だ、と思った。

演劇的な演出を、映画において実践すると、観客は「過剰さ」を覚えずにはいられない。例えばイギリス映画はたびたび演劇的演出をわざと映画中に取り入れることによって「過剰さ」をじょうずに演出しており、いつも感心する(ただし、『エスター』はアメリカ合衆国の映画である)。

取りあげられた子供はすでに死んでいる。しかし、看護師は爛々と(画面の暗さとは対照的な明るさで)死産であることを告げたと思う。ケイトは悲鳴を上げて失神してしまう。この場面で、この映画がサイコ・ホラーであることが、わかりやすいほどに観客に対して提示されている。しかし戯画的に。あるいは幻想的に。

そう、ここまでのシーンはケイトの幻想、幻覚、追憶、トラウマなのである。演劇的演出をもちいて、「過剰さ」をわざと演出するのにはそういう意図があったのだ。ケイトが「過剰に」死産をトラウマ的体験として捉えているということである。

また、この戯画的な冒頭のシーン(イントロダクション)は、これから始まる本編がもっと現実的リアリスティックなサイコ・ホラーとして幕開ける、ということを暗に(しかし確実に)示している。その証拠に、ケイトの幻想、幻覚、追憶、トラウマを映していたカメラは、ケイトの現実、日常を映し取るようになる。

思うのだが、サイコ・ホラーというものは、たんなるホラー映画とは違って、現実的であれば現実的であるほど観客を恐怖へといざなうものである。つまり『エスター』はこの冒頭のシーンによって、この映画が純然たるサイコ・ホラーである、ということを無言で宣言している、とも言える。


「社会構造(とりわけその歪み)」と「直感」について

ケイトとその夫=ジョン(ピーター・サースガード)は、養子を迎えることを決意し、孤児院を訪れる。シスターは全員黒人で、孤児たちは全員白人、そして養子を迎えようとする夫婦(ケイトとジョン)もまた白人である。そこからアメリカという国の社会構造を垣間見ることもできる。

子供たちは子供らしく駆け寄りまわって遊んでいる。シスターは「気に入りの子がいればどうぞ」という感じである。ちなみに、養子を迎えるためには審査が必要であることが映画中でも言及されているが、しかしあのように「気に入りの子がいればどうぞ」では、ペットショップと一緒ではないか。それに子供たちにとってみれば「家族」に引き取られることが幸せに直結するとは限らない。施設で暮らしたほうが幸せに青年期を迎えられる子も、なかにはいるだろう。養子縁組、という仕組みに疑念を持ちたくなるシーンである。このシーンは間違いなく社会構造(とりわけその歪み)を映して、観客に提示している。

エスター(イザベル・ファーマン)は、ほかの子供たちとは違う。ひとりきりの部屋で絵を描いている。エスターを最初に見つけたのはジョンである。ジョンは、エスターの鼻歌に導かれるようにして、部屋のドアを開ける。

「邪魔をしてごめん」とジョンは謝る。そして絵を描く彼女に向かって、完成した絵の何枚かを手に取って、「これは全部君が描いたの?」と訊く。

エスターは肯く。エスターは絵を描き続ける。ジョンは、エスターの左側に座って、エスターの筆致と彼女の姿をうっとりと見つめる。それはまるで映画『ロリータ』(スタンリー・キューブリックではなく、エイドリアン・ラインが監督したほうの作品のほうをここでは指している)でハンバート・ハンバート(ジェレミー・アイアンズ)がロリータ(ドミニク・スウェイン)に初めて出逢うあのうつくしすぎる名シーンを彷彿とさせるがあれには到底敵わない。

それもそのはずでジョンはエスターのことを純粋にわが子として愛していた。性愛の対象ではない、ということが後のシーンで明示されるからである。

だけれども、夫を探しに来たケイトは、エスターと、彼女をうっとりと見つめる自分の夫が2人きりでいる空間に入る際に、一瞬たじろいだように見えた。ケイトはここでなにかを直感したのだろう。それは良い報せではなかった。どちらかといえば、悪いほうの報せだった。しかし、直感には往々にして根拠となる理由はない。そして、当然のことだが、理由のない直感は当たることもあれば外れることもある(彼女の直感は不運にも的中してしまうのだが)。

人間は直感を信じきることができない。直感を信じるには多量のエネルギーを自分自身から供給しなければならない。ましてや直感をもとに他人を説得するとなると倍以上のエネルギーを要することになる。だから人は理由を求める。因果関係によって仮説を証明することでエネルギーを外部から供給し、自身のエネルギーを節約できるからである。シスターもまた、この部屋の入り口でなにかを直感したように見える。けれど、エスターのことをうっとりと見つめる夫婦——その夫婦は「あの子はわたしたちに心を開いてくれた」とひじょうに嬉しそうにしている。ピアノを弾くケイトは、芸術的センスがあるエスターに親近感を覚えていた。この子となら一緒にピアノを弾くことができるかもしれない、と希望を抱いていた。そんな夫婦を前にして、シスターは自分の直感は間違いだったと思い直す。最終的には、夫婦にエスターのことを薦めるに至る。


あとがき

2023年の抱負のひとつとして、「舞台芸術、映画、美術展、日常のなかでなにかを鑑賞したときにはかならず文章にまとめておくことを徹底する」と、下の記事に書いた。

「感想文」や「批評」を書く、というふうに型を決めてしまうと楽しく書くことができなくなってしまうので、都度、自分が面白いと思う書きかた(小説っぽい書きかた)で書いていこう、と心に決めていたが、いろいろな文体を試す、という意味で批評的なルールに沿って書いてみたつもりではあります(うまくできたかどうかはわかりませんが)。

まず、作品についてを記述するということ。そこを出発点にしなければ批評にはなり得ません。作品について記述したところから自分の意志を書きこんでいくのです。

間違っても自分の意志を先行させないようにします。意志が先行してしまうと、それは「批評的なもの」から「小説的なもの」へと飛躍してしまうからです。飛躍を防ぐために、文章中に一人称を登場させないように気をつけました。

そして、これは書いてみて気づいたことですが、批評と小説はそう遠いところにあるわけではありません。たんに順番が逆なだけなのです。つまり、批評を書く際は、書こうとする対象をまず最初に記述しなければなりません。一方で、対象を真っ先に記述してしまっては小説を書くことはできません。結局のところ、順番を逆にして、同じことをしているのかもしれないと思ったのです(けれど、順番が逆になれば文体も変わらざるを得なくなりますし、行き着く結論もおそらく異なるものになるでしょう)。

今回、こうして「批評的なもの」を書いてみて、映画の画面のなかで起こる出来事を文章に起こして「再現」していくことは、表現と描写の練習に直結するだろう、ということを直感することができました。因果関係はまだ成立していませんが。良い結果を導きだせるように「批評的なもの」も継続的に書いていきます。

また、映画以外のもの(絵画や彫刻、空間芸術)を自分はどのようにして文章で「再現」するだろうか、ということにも興味が湧いてきました。


『エスター:ファースト・キル』が2023年3月に公開!

この記事では、ケイトとジョンがエスターを家に連れて帰るまで、を書きました。この記事を通して映画『エスター』を観てみたくなった方はぜひチェックしてみてくださいね。

ホラー映画が苦手な人でも、サイコ・ホラーは観れると思います。サイコ・ホラーで描かれるのはいつも人間の狂気です。ともすると、サイコ・ホラーのほうがこわく感じられるかもしれませんが。

2023年3月には続編も公開されるようです。


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