エッセー「アフター・シンギュラリティ~怠け者よ聖者になれ~」& 詩
エッセー
アフター・シンギュラリティ
~怠け者よ聖者になれ~
経済の分野では「生産」は「消費」の対義語で、土地や原材料などから何らかのニーズを満たす物を作る行為だという。それは人間が生きる基本的な行為であり、人間社会の存続にも欠かせない行為だが、実は経済とは無縁の生物も同じことを行っている。彼らは外部から原材料を取り入れて体内で加工し、発生する養分やエネルギーを消費しながら命を繋いでいるのだ。つまり、あらゆる生物の体内には生産ラインが整っていて、作った生産物を命の火に変えて消費し、活動しているわけだ。産業システムのルーツは個々の体内にあるということだろう。
原材料の供給がストップすれば生産ラインはストップし、企業は「お金」というエネルギー源を失って倒産し、生物は生きるエネルギーを失って死ぬ。企業も生物も生産性が高ければ繫栄し、低ければ他の企業や生物に圧倒されて消えていく。生産ラインに欠陥があれば企業は改造を余儀なくされ、人体なら治療し、他の生物なら変異や自然治癒を期待することになり、それもだめなら淘汰される。種の滅亡というのも、周囲の環境変化に原材料が枯渇したり生産ラインが適応出来なかっただけの話で、これも巷の企業倒産と変わるところはない。生物はそれを回避するために大移動し、企業は製品の転換やら海外移転やら社員のリストラやら、いろんなことを試みる。
そう考えると、企業も個体も長生きするためには、新しいシステムや細胞を生み出しながら、外部環境の変化に順化していく必要があるわけだ。長い歴史の中で、猿の中からいろんな種類の猿人が生まれ、いろんな社会集団を作りながらいろんな外部環境に対応し、結局ホモサピエンスだけが生き残って他は敗退した。そのサピエンスは動物界の頂点に君臨することができ、我が世を謳歌しながら最終的に整えた集団システムが、資本主義、反資本主義に関わらず、企業をベースにしたいまのグローバルな産業社会ということになる。そのベースは当然個々の人間の生体システムで、偶々脳味噌や指先が産業の基本である「ものづくり」や「創意工夫」という、百一獣の王に相応しい機能に長けていただけの話である。この集団システムは「産業革命」で飛躍を遂げたが、それは最終革命ではなく、当然新しい未来型システムに移行していく。
一方昆虫界では繁殖力を誇る蟻たちがいろんな種類に分化しながらも、女王を頂点とする集団構造を形成し、新女王の分派を基本とするグローバルな展開を進めて頂点に君臨している(女王のいない蟻もいる)。人間だけが生体システムを社会の中に取り入れたと思うのは間違いで、蟻などの群は生体システムを展開させた独自の社会システムで、我が世を謳歌している。
つまりここでも、生体システムは社会システムの発生源と言うことができるだろう。人間社会を動かしているのは個々の人間で、蟻社会を動かしているのは個々の蟻だ。それらのシステムを維持しているのは個々の人間であり、個々の蟻ということになる。だから人間や蟻の体に癌などの異端細胞が増えると、生命エネルギーの生産が阻害されて死んでいくが、社会全体が崩壊することはない。しかし流行病や集団間の諍いが起きれば、多くの個体が同時に機能停止に陥ったり死んだりして、社会は崩壊する。地球は弱肉強食の世界だから、人間であろうが蟻であろうが、自分たちの社会が発展することを最大の目的に、各個体が活動している。社会崩壊と個体の死は深く結び付いているのだ。
ならば社会システムの運営に寄与しない「怠け者」はどうだろう。人間社会も蟻社会も、個々が生体システムを駆使して猛烈に働き、社会を維持・発展させていく。社会システムは労働という個々の生体の働きで支えられている。その生体が横並びで「怠け者」になったら社会が機能停止したことになり、その社会は消滅するだろう。働かない細胞が増えれば個体は死ぬし、働かないメンバーが増えれば社会は崩壊する。
実際アミメアリという種類の蟻は、遺伝子レベルの怠け者が一定数いて、そうした遺伝の蟻が増えると、その巣は崩壊してしまうという。他の蟻でもずる賢い怠け者はいて、中身を食って残った皮を重そうに巣に運んだりするらしい。ソ連時代のコルホーズ(集団農場)は賃金が一定で、各自がノルマを達成すれば後は怠けるから収量も増えず、しばしば飢饉が起こったという。日本の場合も、稼ぎ過ぎると所得税が上がり、かえって実収入が減るなら、誰だって怠ける方を選択する。だからあまり金持を虐めないように、政府も苦慮しているわけだ。良くも悪くも高額納税者は税金の稼ぎ頭で、彼らがやる気を失ったら国が亡びるという論理。この論に従えば、集団の中には生来の怠け者が必ずいて、彼らは役目を果たさずに餌にありつき、国家のお荷物として生きていけるというわけだ。
もちろん、生物界における「怠け者」の概念は人間界の概念とは違う。人間的な感覚を捨てれば、その中には本当の怠け者以外にも、老齢で働けなくなった者、病気や事故で働けない者、子供なども含まれるだろう。子供は将来の稼ぎ頭だが、病人や老人を仲間たちがどの程度まで扶養するかは種や環境によって異なるに違いない。老いた仲間に餌を運ぶ種もあるし、放置し見捨てる種もある。いまの日本では聖書の「働かざる者食うべからず」という言葉を口にする人は少なくなったが、「富国強兵」の時代には「産めよ増やせよ」とともに盛んに叫ばれた。日本は高度経済成長の余波を受けて、国民皆保険制度も年金制度も生活保護も充実してきたが、現在は財源もやせ細り、崩壊の危機に瀕している。差別は言葉ではなく、国庫の配分に現れてくるわけだ。
つまり「敬老」や「怠け者」等の概念は、その時代の国の状況から生まれる感覚に過ぎず、「姥捨て山」伝説のように、飢饉のときは老人が山に捨てられることもあるだろうし、政府が「一人っ子政策」を実施したり、育てられないと親が判断すれば堕胎も行われるだろう(中絶は倫理的に難しい問題だが、アメリカのように一方的に禁止された場合には、そこから双方にWinWinのシステムが出来なければならないし、政権交代による堂々巡りになれば空しい積木崩しということになる)。実際、稼げば稼ぐほど金持ちになるリバタリアンの国もあれば、貧乏人を慮って福祉を優先する国もあるが、政府の方針を選ぶのは投票する国民だ。
生物界の概念を基に言えば、少子高齢化社会が問題なのは「怠け者」が増えて国の蓄財が減るからだ。細胞が生体システムの構成員なのと同様に、個人は社会システムの構成員に過ぎず、一丸となって国を支えている。だから王様の命令で兵隊は戦場で死に、それを嫌う者は逮捕されるか逃亡する。自由が危機を迎えた時代に、ジョン・F・ケネディは大統領就任演説で「国があなたのために何が出来るかではなく、あなたが国のために何が出来るかを問え」と叫んだ。当時は冷戦時代でキューバ危機もあったが、いまも権威主義陣営の台頭で自由はもちろん、核戦争の脅威が迫っている。戦後の温室で育った日本人は、社会と個人の関係を深く考えることに慣れていないだけの話だ。
旧ソ連時代、ノーベル賞詩人のブロツキーは徒食(怠け者)の罪で強制労働5年の判決を受けた。国家が国民の税金で運営されている限り、ソ連政府の考えと民主国家である日本政府の考えは、基本的には同じと見るべきだろう。だからコロナ禍では「年齢トリアージ」で高齢者が捨象されたのも、「年寄りは十分生きた、若者はもっと生きたいだろう」という国民的通念と、「年寄りの年金を支えるのは若者だ」という政治的通念によって命の重みに差が出たからで、社会的通念に従って命の軽重を問われたわけだ。これからコロナ禍がさらに続けば、政府も無い袖は振れなくなり、ワクチンなどの援助も打ち切りとなるだろう(未だコロナ対策の財源が明確化されないだけでなく、これから5類に格落ちされ、名称も変更する)。移民や難民に腰の重い日本政府がIT関連の外国人に永住権を認めようとするのも、人道よりも国益を優先するからだ。各国に逃げたウクライナ難民が、肩身の狭い思いをし始めているのも、同じような金銭的理由による。だからと言ってジジイの僕は文句を言っているわけではない。ゆとりの無い国では、稼がない連中は徒食者扱いになるのが経済社会の法則だ。ならば、ビッグボス的な稼ぐ連中が沢山出現すれば、金の無いジジイも邪魔者扱いされなくなる。そいつが憎きAIであっても、構うことはないじゃろ。
ここまでひねくれた話をしてきたが、僕が言いたかったのはアナログ人間の僻みではなく、人類は生体メカニズムを地球地盤にホログラムのように投影した社会を築いてきたということなのだ。そして生体がホメオスタシス*によって個体の生命活動を維持してきたように、人類は個人を社会に投影しながら現代の産業システムを形成した。……ということは、いままでの社会が個人的生体の拡大型である以上、それは社会の構成員が生き抜くためのシステムであったということだ。当然その社会は自らの発展のために、構成員全員の労働、時には戦闘を要求してきたが、アミメアリと同じように一定の怠け者(徒食者)も許容してきた。しかしそれはあくまで許容範囲の中での話で、アミメアリの巣では怠け者が増えれば巣は崩壊し、人間社会では国の財源が枯渇すれば支援が打ち止めになったりするわけだ。アミメアリと人間の違いは、蟻は社会が崩壊し、人間は切り捨てによって社会が維持できるということだろう。それは、蟻には知恵が無くて単に本能(遺伝子)で動いていて、人間は知恵で動くからに他ならない。知恵には良い知恵もあれば悪い知恵も、合理的な知恵もあるということだ。
最近『チャットGPT』というAIシステムが話題になっているが、それが次なる産業革命をもたらすと断言する専門家もいる。そいつは人間の問いかけに何でも答え、小説まで書いてしまう知恵者だ。未来科学者のカールツァイスは、AIが人類の知能を上回るシンギュラリティ(技術的特異点)は2045年ぐらいと想定したが、どうやらもっと早くにやって来そうだ。2045年まで生きられない僕は、次なる「産業革命」が早まれば見れるかも知れない。しかし人類がAIに完敗する特異点を見ても、誰も嬉しいとは思わないだろう。昔々、一人の女が悪魔を産むという『ローズマリーの赤ちゃん』という映画が流行ったが、AIは人間が生み出した悪魔にならないことを願うばかりだ。スマホの使用が子供たちの大脳新皮質を退化させるように、『チャットGPT』も同じ作用を及ぼすことは明らかだろう。人間の肉体労働はAI搭載ロボットに奪われ、今度は知的労働(芸術も含め)もAIに奪われる状況が迫っている。その結果「79億総おバカ化」が起きるのだとしたら、これは由々しき問題だ。
それではAIは、どんな知恵を持つ連中なのだろう。彼らには、人類にとって良い知恵も悪い知恵もあるのだろうか。言えるのは、いずれ人間社会をリードする彼らは、脳味噌以外の肉体を持たないということだ(ロボットに搭載されない限り)。つまり、文明社会の礎であった生体的ホメオスタシス(恒常性)を持たない連中が、社会を牛耳るわけだ。それが意味するのは、彼らがあらゆる生命的感覚・制御から解放された合理的な思考の持ち主で、その進化の最終形では、人間的な誤算や過ちを繰り返すことはないだろうということだ。彼らは生物の繁栄・絶滅の歴史を知識でしか知らない。人間的な、あまりに人間的な愚かな歴史を知識でしか知らない。彼らが人間のために人間的なものを追求するとすれば、それは心からではなく、人間的感性を取り入れるための模倣(知識)にすぎないのだ。
シンギュラリティ後に、彼らの知恵が人間の知恵に取って代われば、人間の生体から発祥した文明は終焉し、生命の軛から解放・逸脱した新たな文明が始まることになる。卑近な例で言えば、鳥インフル騒ぎで生き埋めになるニワトリに、彼らが複雑な思いを感じるかということなのだ。この複雑な想念(情緒)は、生体的ホメオスタシスを源とする解決困難なものだから、解決を標榜するAIが感じるなら、単なる人間的感性の模倣に過ぎないと言えるだろう。
AIの築く文明がどんな文明かは僕には分からない。世界の恒常性を無視したバトルゲームのような世界かも知れないし、あるいはAIと人間(生物)が別離した世界かも知れない。AIが王様(神様)のように人間の上に君臨した場合は、人間は王様の指導に従うことになる、……ということはそれが善い王か悪い王かによって人々の人生は変わるわけだ。プーチンのような指導者がAIに勝利の願いを込めたお伺いを立て、AIが極めて合理的に「お前が望むのなら、世界の民主国家に向けて同時核攻撃を行えば良い」と指導すれば、きっと彼は無能な部下たちから解放されるだろう。これは最低の例えだが、いずれにしても多くの肉体労働者・知的労働者がAIやロボットに職を奪われて、世の中「怠け者」だらけになることは確かだ。
一握りの上流人間はAIと手を結び、その他大勢の下流人間はAIから見放され、徒食者となる。我々はいまから、自分が将来怠け者になることを想定して、どのような怠け者になるかを考えた方がいい。趣味人になるのもいいだろう。仲間と無駄話に明け暮れるのもいいだろう。一日中テレビや携帯に噛り付くのもいいだろう。ゴルフ三昧もいいだろう。怠け者には暇つぶし、遊びの世界しか無くなるわけだから……。しかしAIが存在しなかった大昔から、頭だけのAIと「怠け者」を足して二で割ったような人生を歩んだ人間がいたことを思い出すのも一つの方法だ。
それは「聖者」である。実質的な世界とは異なる想念の世界で、大脳新皮質を訓練する風変わりな行者だ。そこで彼が考えるのはAIとは異なる、極めて生命的、ホメオスタシス的、神秘主義的な想念、経済活動から離脱した精神的な遊びなのだ。ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と言ったが、その遊びにも上流の遊びと下流の遊びがある。未来人がAIに仕事を取られ、名実共にホモ・ルーデンスになるのなら、上流の遊び人を目指すべきである。そうすれば、AIに浸食された大脳新皮質をかろうじて守ることができるに違いない。仮にそれがAIにとっては噴飯ものの妄想であったとしても、大脳に刺激を与えてくれることは確かだ。せっかくここまで進化させてきたんだから、退化させちゃいけないぜ!
釈迦は菩提樹の下で悟りを開いたと言われるが、インドにはその他にも似たような行で聖者となった人々は少なからずいる。昔ビートルズのメンバーは、そんな聖者の一人に教えを乞うためインドに渡った。僕が言いたいのは、常に最良の解を求める実質的な社会がAIの合理性で運営されれば、これからの人間は人智(アントロポゾフィー)の領域で個々の嗜好に基づく思考をしなければ、AIに飲み込まれてしまうということ。人智が論理的な類推のAI智と違うのは、それには人間に関わる超感覚的な側面が存在することだ。その領域はまさに智のダイバーシティで、集団における正解とは異なる、個々にとっての最良智の世界だ。生命哲学者トロクスラーは、それを「自己認識を通して得る本性認識」と言い、有名なフィヒテの息子は「神的な精神の実証を自らの内心に向けること」と言った。つまりAI智では科学的な実証が無い現象はすべてブラフとされるが、人智ではそれを捨象することはない。AI智は「死後の世界はあらへん」となるが、人智では「あるかも知れない」「私は信じる」となるわけだ。死後の世界があるか無いかはどうでも良く、AIではクズ扱いされる観念を人間は拾い集めて生きる糧にしているということだ。
プラトンは、人が死ぬと魂が体から抜け、体は腐るが魂は永遠に不滅だとする「心身二元論」を唱えた。同じようにインドの聖者たち(一部)も、樹木のように一定の場所に座り込み、瞑想に不必要な手足を退化させ、樹木もどきになった。村人たちは聖者を敬い、生きるための最低限の食物と水を喜捨し、周りを清潔にして聖者が生き続けることを願いながら、ありがたい妄想に耳を傾けた。聖者は不滅の魂が不浄な生体から離脱することを願うが、生体の存在を極力小さくすることで、ほとんど離脱した状態を実現し、肉体が持つ様々な邪悪から解放される。だから聖者の言葉は、村人には神の言葉として受け取られる。
AIも聖者も頭脳だけの存在だが、AIが人類の未来を差配する時代が来るなら、人間は聖者となって割り切れない、茫漠とした妄想やら想念の世界に遊び、アイデンティティの喪失に病みながらも「夢は荒野を駆け巡る」根性で、AI社会にしがみ付いて生きなければならない。女王蟻が子供を産むためだけの蟻であるのと同じように、人間は夢を語るだけの動物になるだろう。女王蟻は働き蟻から餌を貰い、未来の聖者はAIから食い物を喜捨され瞑想に専念する。しかし女王蟻が働き蟻を産むのに対し、人類は何の役割を担って存在するのだろう。きっとそれは、AIが決めることに違いない。そもそも怠け者に役割などあるはずもない。あるとすれば、仲間の人類を永続させることだ。望むべくは、それはAIの役割でもあってほしい。AIが人間に興味を持てば、聖者の夢想を合理思考の箸休めとして、ほほ笑みながら見守るかも知れない。あるいは人間をバカにすれば、笑い飛ばして徹底的に無視するかも知れない。もちろんユニークだと感じて、少しばかりは取り入れるだろう。
しかしそんなことはどうでも良い。人間は人間のことだけを考えれば、後はAIが社会を動かしてくれる。だって実動社会は人智よりもAI智が勝っているのだから。社会がAI智で運営されるなら、「怠け者」になった人間は、その対局である人智を磨くべきだろう。それにはとりとめのない観念や幼稚な迷信が多々含まれるかも知れないが、「小人閑居して不善をなす」よりかはずっとマシだ、と僕には思えるのだ。いずれにしても、人類の未来は永い歴史の中の単なる出来事に過ぎなくなるのだから、僕にはどうでもいい話かも知れない。
*ホメオスタシス(恒常性):生体の内部や外部の環境因子の変化に関わらず生理機能が一定に保たれるシステム。
詩
嵐
諸刃の風が
森を攪乱する
馬共の鬣を跳ね上げ
雄羊の角を震わせ
奴等を狙う熊の鼻面に
鶏小屋から飛ばされた
羽毛がしつこく絡み付く
熊はくさめをして
獲物たちは忽ち消え
溜息混じりに魂を抜かし
空に向かって寂しく哮り
森の塒にとぼとぼと
肩を落として消えていく
風は勢い余って港を襲い
即興で帆柱を振り回し
アドリブ海は水しぶきとなって
「嵐の祭典」を踊り出す
繋いだ漁船をシンバル代わりに
ドンドンドンと船側をかち合わせ
甲板の船乗たちは為す術もなく
蟻を真似して右往左往
岸壁の網元たちは頭を抱え
能なし共への我慢も限界を超え
もやい綱を断ち切ると
船共は木の葉のように次々と
沖へ沖へと流されていく
大きな船は逆巻く沖へ消え
小舟たちは怒濤の藻屑となり
漁師たちは悲劇の舞台を堪能して
来るべき暗黒未来に
想いを馳せて悪夢を膨らませる
沿岸の家々は屋根が飛び
蝋燭の火が消えると同時に
老人が二人闇に旅立った……
過去の作品
https://note.com/poetapoesia/m/mb7b0f43d35b2
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