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沖縄・首里城火災後の現在。復興ソングを歌う「5th Elements」の思いとは

沖縄県那覇市にある首里城。2019年10月31日に正殿が原因不明の火災で焼けてしまい、現在、復興作業を行っているところです。首里城復興を音楽でサポートする、沖縄出身の2人組アーティスト「5th Elements 」で、復興ソング「SYURI NO UTA」の歌詞を手掛けたA-RAさに首里城への思いを伺いました。

※復興問題など、取り上げてほしいことがありましたら、お気軽にお問い合わせください。

沖縄・首里城火災から1年。沖縄の歴史を振り返る

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日本の47都道府県に数えられる沖縄県。その中心智言える首里城は、世界遺産として、国宝としても有名です。本土に住む私たちからしたら、数ある世界遺産の1つという程度の認識という人も多いのではないでしょうか。しかし、沖縄に住む人たちにとっては、琉球王国時代から続く大切な宝物。5度目の火事で焼失したのは、復興完成からわずか10カ月目のこと。

沖縄や奄美の文化は日本文化をルーツとしながらも、本土からかなり離れていたこともあり、琉球王国として発展します。琉球王国は、日本(鹿児島藩)と中国、2つの国に属していたものの、1879年(明治12年)の沖縄県設置により、日本に属することに。

それまで琉球王国の拠点だった首里城は、日本軍の駐屯地、各種の学校等として使われました。その後、1930年代には大規模な修理がおこなわれたものの、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼してしまっています。実は、このときまでにすでに2回消失しています。一度目は、1453年の王位争いが原因、2回目は1660年、3回目は1709年。4回目が1945年。そして、4回目の再建開始から40年たった2019年10月31日、原因不明の火災(出火元は電気系統設備が集中していた正殿北東側といわれているものの、正確な原因は現在も不明のまま)、正殿焼失を含む大規模火災が発生したのです。4度目の復興には約40年近くかかっており、首里城の御内原全体が新規開園ゾーンとして観光客に開放されたのが2019年2月1日。やっと首里城が完成したと喜んでいた、わずか10カ月後に火災に遭うとは――。


首里城・復興ソングを歌う「5th Elements」アーラさんにインタビュー

今回、復興支援ソングを手掛けたのは、東京を拠点に国内外で活躍する竜馬さんというヴァイオリニストです。竜馬さんの呼びかけに応じた沖縄に所縁のある、もしくは想いを寄せるアーティストが集まり、首里城復興を願いクラウドファンディングで協力を募ってスタートしたプロジェクトです。

参加したアーティストは、沖縄を拠点に活動するアーティスト、ユウさんとアーラさんの2人からなる「5th Elements(5th エレメンツ)」、田尻大喜さん、仲田まさえさん、前田秀幸さん、金城しおりさん。代表作である「SYURI NO UTA」(しゅりのうた)は、首里上復興を願う人たち、とくに次世代を担う子どもたちにも伝えていきたいとの思いから、地元の合唱団の子どもたちにも歌ってもらうことに。作曲は、ヴァイオリニストの竜馬さん、作詞は、「5th Elements」アーラさんが手がけました。

「ずっとそこにあるのが当たり前だと思っていた」

曲の歌詞を手掛けたアーラさんにとって首里城とはどんな存在だったのでしょうか。

「首里城は、僕たち沖縄県民にとっては、あって当たり前のものでした。首里城は、丘の上にあります。その丘に城を構えることで、一面海を見渡すことができ、敵の侵入をいち早く気づくためです。僕たちが生まれた時は、沖縄はすでに日本に属していましたが、はるか昔は琉球王国という一つの独立した国だったんです。その琉球王国時代の名残となるのが、首里城です。

子どもの頃から学校や地域、家族で何度も訪れていた場所で、あって当たり前。そんな場所がまさかそこが焼けてなくなるとは思いませんでした。しかも、たった一夜にして……。


火事があった当日の夜、僕はライブ活動のために東京にいました。首里城のことは、テレビのニュースで知りました。翌日、すぐに沖縄に戻り、首里城に駆けつけたけど、もうすでに立ち入り禁止になっていました」

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大切な復興ソングを作詞していいのか

首里城復興に向けて、いろんな人たちが動き出しました。自分たちにも何かできることはないかと考えていたところ、以前から知り合いだった竜馬さんから復興ソングの話をいただだき、僕が歌詞を担当することになったんです」

アーラさんは、どんな思いで首里城について歌詞を書いたのでしょうか。

「書きたい気持ちはあったのですが、同時に、自分なんかがそんな大切な歌詞を書かしてもらっていいのかという思いもありました。首里城は、琉球の時代から続く歴史あるものです。また、この曲を沖縄の子どもたちがずっと歌い継いでくれるかもしれない、という思いもあり、プレッシャーも感じました。ただ、それよりも首里城のためにできることをしたいとの思いから、思い切って受けることにしました

歌詞を書くにあたり、改めて首里城の歴史を調べ直すことから始めたといいます。

「子どもの頃から、遠足や家族との外出などで、何度も足を運んだ首里城について調べてみると、初めて知ることもたくさんありました。首里城は、焼失から1年たっても、まだ焼け焦げた匂いがするんですよね。そういうことって、現地を訪れた人にしかわからない感覚です。また、沖縄は戦争の歴史もあり、だからこそ平和を願った曲にしたいと思いました

歌詞の中に「あの日見た景色を」という言葉がありますが、それは首里城のシンボルでもある正殿のことを思いながら書きました。青い空に真っ赤な首里城の正殿を、あの素晴らしい景色をもう一度探しに行こう。そんな思いで書きました」

今回、もう一人のメンバーYUさんには、首里城の件については直接聞いていないのですが、気持ちは同じだと思います。また今度、東京にライブに来たときに聞いてみたいと思います。

復興真っただ中の首里城。現在の様子は?

「5th Elements」の2人の話を聞き、翌朝、首里城に行ってみることにしました。実は、私が首里城を訪れるのはこれが初めて。首里城といえば、一面広い場所に、真っ赤な正殿が鎮座する写真しか見たことがなかったので、丘陵にあるとはまったく知りませんでした。

1530年ほどに創建されたという「守礼門」。「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれているのが見えますが、この意味は「琉球は礼節を重んずる国である」ということをいっているのだそうです。

すぐに正殿につくかと思いきや……。坂道は続き、次々と門をくぐっていくことに。

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次に出てきたのが「歓会門(かんかいもん)」。とは「歓迎します」という意味。ここは城郭(じょうかく)内へ入る第一の正門なので、「いらっしゃいませ」的な、そんな感じなのでしょうか。

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ここは「西のアザナ」あたりでしょうか?首里城近くには、高校や保育園などがありました。グリーンが鮮やかな南国の植物が生い茂っていて、真っ青な空と合わせて、とてもいい景色を見ることが出来ました。

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石畳の階段を上っていくと、沖縄の街が見渡せます。琉球王朝の人たちも、ここからの景色を見ていたのかと思うと、感慨深い。

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こちらは漏刻門(ろうこくもん)。当時、身分の高い役人は籠にのって首里城までやってきたものの、高官でも国王に敬意を表すために、ここから先は歩いたといわれています。

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真っ赤な、大きな門をくぐって奥にずんずん進んでいくと、今度はシーサーがお出迎え。なんだか「千と千尋の神隠し」の異世界への扉を連想してしまいました。

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魔除けとして知られるシーサーだけあって、近くで見るとよけいに貫録があります。

復元できる職人がいない。材料調達が困難……

首里城の正殿は残念ながら焼けてしまっていたため、正殿のあったところから写真を撮ってみました。

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首里城正殿そばで、案内をしていた高齢スタッフの方にも話を聞いてみました。

「黒いビニール袋に入っているのが、焼け焦げた瓦の数々です。かなりの枚数があるため、まだ整理できていないものもたくさんあります。幸い、県内外からたくさんのボランティアの方が集まってくれて、瓦についた漆喰をはがす作業をやってくれています。ボランティアの人たちは、申込制になっていて、ホームページから受付をしているんですよ。この漆喰をはがして、専門の職人が瓦を叩き、音を聞いて、まだ使えるものか、傷がついていて使えないのかを調べるのです。

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正殿正面の赤瓦は、沖縄独特の赤色の粘土が使われています。この粘土には、鉄分が多く含まれていて、酸化焼成という独特の焼き方で焼くと鮮やかな赤い瓦ができます。赤瓦には適度な吸水性があるので、雨が降ったら適度に水分を吸収し、晴れた日にはその水分を蒸発させます。その際に、熱をにがしてくれるため、屋根の温度が下がり、結果として室内の温度が下がるのです」

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赤瓦を1枚ずつしっかりと固定する役割をしていたのが漆喰。この漆喰をはがして、もう一度使える状態のものだけを再度、首里城・正殿に使おうということなのです。

この首里城に使われていたものは、材料が入手困難だったり、修理できる職人さんも少ない。前回の火災の際に再建に携わった職人のお弟子さんが、今回は指揮をとっていますが、その方ももう70歳ほどです。知識も経験もない若い人たちに指示を出しながらやっていますが、どこまで再現できるかわかりません。現在正殿に使用する柱は、おおよそ入手先の目途が立ったといわれています。今は、2026年度の正殿復元に向けて、できることを1つずつ積み上げていっています」

砕け散った赤瓦を小学校の花壇で再利用

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首里城全体の復興が終わるまでには、まだ20年以上かかるといわれています。沖縄の人たちにとって、首里城というのはどのような存在だったのでしょうか。

琉球王朝時代だから続く……沖縄の宝ですうけついだものを次の世代に残したい。それだけです。そのため、割れて使えない赤瓦などは、県内の小学校の花壇などに使ってもらう予定です

形は変わっても、沖縄の宝を残したいという気持ちが伝わってきました。

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割れてしまった「龍頭棟飾」(りゅうとうむなかざり)

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こちらは「龍頭棟飾」(りゅうとうむなかざり)。首里城正殿の屋根に多くの焼き物を組み合わせて作った巨大な竜の装飾です。竜頭棟飾は、鉄製のフレームの上にガラス繊維を含めたモルタルで形どり、その表面に焼き物を張り付けていました。魔除けと装飾の役割があったといわれています。現存している部分を元に、復元していくのでしょうね。

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茶色くさびれた鉄の棒のようなものが、竜の髭です。

那覇の街を一望できる「東(あがり)のアザナ」

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正殿裏側には、「東(あがり)のアザナ」へと続く道。

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けっこうな坂が続きます。意外と1段ずつが大きいので、息切れしました。

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首里城一の展望スポット「東のアザナ」。首里城一帯をみわたせるうえに、那覇の街や海を見渡すことができます。

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琉球王朝時代、この高台から那覇の街を見渡し、敵の侵入などがないか見張っていたのでしょうか。

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久慶門(きゅうけいもん)。歓会門(かんかいもん)が正門であるのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したといわれています。

杜館(すいむいかん)で休憩

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首里・杜館(すいむいかん)前の広場。ちょっとした売店が軒を連ね、広場では子どもたちが空手かなにかの稽古をしていました。

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杜館は、情報展示室、総合案内、レストラン、売店、トイレなどがありました。地下にとめてあった駐車場に戻ったら、車内の気温は32度。真冬なのに真夏日に近い気温でした!

始めて訪れた首里城、火災前の姿を見ていないのがなんとも残念ですが、これから復興していく様子を見守っていきたいと思います。

復興ソング「SYURI NO UTA」。収益の一部を復興支援に

今回、私は「5th Elements」アーラさんから首里城のことを聞き、訪れることにしましたが、もし聞いていなかったら、何も知らず帰っていたかもしれません。沖縄の首里城のことは、本土に住む私たち、とくに首里城や、沖縄自体を訪れたことがない人にとっては、それほど親しみがない話かもしれません。もし、このブログを読んで、少しでも首里城について興味をもってくれたら、復興ソング「SYURI NO UTA」をダウンロードして聞いてみてください。収益の一部が復興支援にあてられます。

go to キャンペーンを利用して沖縄に行く人も多いと思います。観光とともに、今しか見られない復興中の首里城を見てきて欲しいと思います。

また、「5th Elements」の曲「願い」が、支援をサポートしてくれている「au沖縄セルラー」CM タイアップソングに決定したそうです!おめでとうございます。

首里城の現在の様子は、こちらから見ることが出来ます。沖縄の首里城、始めて訪れましたが、想像以上に素敵なところでした。

明日は沖縄で訪れた、バーなのにソーキそばがやたら美味しいお店や、かき氷が美味しすぎる看板犬のいるカフェ、海が見渡せる石窯焼きピザのイタリアンレストラン、一度使っただけで肌がしっとり潤う「琉球の白海泥」パックのお店、エメラルドグリーンに輝く海などを紹介します。お楽しみに!

フローレンス、マクドナルドハウスなど、国内外でつながりのある子供のための支援団体に寄付させていただきます。