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作者がコントロールできること・できないこと。

 もっぱら一読者として一冊の書物を読むことを想定しよう。
 読者は、読む本のジャンルや読む目的に応じて、読み方を変える。必ずしも最初のページから最後のページへ辿り着く、という読み方をしていない。

 学術書であれば、目次を見て、自分の今知りたいこと・興味のある箇所を見つけて、そのページから読み始める。面白ければ、他のページも読むだろう。
 面白い本であれば、最初はここ、次はここ、その次はここを読むというように、目次通りの順番ではないが、一応すべてのページに目を通すことになる。
 だが、一般的に言って、面白いところは面白いのだが、最初から最後まですべて面白いという本は稀だ。
 だから、楽しむことが読書の目的ならば、面白いところだけ読んで、面白いと思えないページを飛ばして読むことは、一概に悪いこととは言えない。

 長編小説を読む場合はどうだろう?
純粋に小説そのものを楽しみたいならば、学術書とは違って、たいてい最初のページから読んでいくことだろう。おそらく、最初から読み進めていって、「面白い」と思えなければ、途中で読むことをやめてしまうかもしれない。とくにそれは、初めて読む作者の作品を読む場合に起こりやすい。
 面白いと思えるか、思えないかということは、文豪が書いた作品を読むときも同じ。ただ、「古典」として読み継がれている作品ならば、自分の好き嫌いを超えて、普遍的な何かをもっているに違いないと思うから、一応最後のページまでめくってみたいと思うことはあるだろう。

 誰が言った忘れたが(阿刀田高さんだったかな?)、例えば、現代作家が今の時代に「新約聖書」や「古事記」のように冒頭にズラズラと人名が登場するような小説を出版社に持ち込んだなら、冒頭部分はバッサリと切り落とされるだろう。
 また、「罪と罰」のように、犯人がラスコーリニコフだと最初に分かってしまうような小説も採用されることはないかもしれない。

 今の時代は作者の想いを、作者が描いた通りに読むことが少なくなって来ているように思う。
 読者が読者自身の好みを優先して、作者の想いを歪めていないだろうか?

 これは小説に限ったことではない。音楽を聞くときは、より甚だしい。
 レコードやテープに録音されたものならば、だいたい順番通りに聞いていたが、CDが出てからは好きな曲を繰り返し聞くようになった、という人は多いだろう。この曲から順番に聞いてほしいというアーティストの想いは、音声配信になってからいっそう踏みにじられているような気がする。

 ノスタルジーと言われれば、それを否定しないが、読者・リスナーが強者になりすぎていることを危惧する。情報量がいくら増えたって、それを処理する人間の頭脳の容量は、昔も今もさほど変わっていないのだから仕方ない。仕方ないのだが、量が増えても、できるだけ作者の想いを受け止めたいという気持ちがある。

 モノだけでなく、情報やコンテンツも年々消費されるスピードがはやくなっているような気がする。そんなに新しいモノや情報なんて必要ないんだけどなぁ、とふとした瞬間に思う。

 押し寄せてくる情報を流れ作業的に処理するのではなく、正確に読み解くためには「賭け」が必要なのかもしれない。直観と言ってもよい。
 もちろん処理能力を上げればよいのだが、情報量は天文学的に増えている。
 よいものを選別するためには、時間がかかりすぎるから、必然的に「賭け」は必要だろう。

 こんなことを書いたのは、noteに依るところが大きい。他にもいろいろ書いているのに、特定の話題しか読まれないこともある。自分だって、多かれ少なかれ、似たようなものなのに。
 けれど「仕方ないよね」とは言いたくはない。だから、最近悶々とした気持ちになることがある。たぶんnoteを卒業していった人も、同じように感じたのではないだろうか?

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