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カント主義者の日常😛✨

 私はカント主義者だ。カントというと、小難しい哲学を想起する人々が大半だが、そのエッセンスは大して難しくない。簡単に4つだけ、カント哲学のエッセンスを挙げておこう。


何事にも「普遍的法則」があるということ。例外があってはならぬ。


自分が従うべきルールは、自分で決める。そして、そのルールに従う理由は、「ルールを尊重する」というその精神のみ。無批判に受け入れたルールは、ルールたり得ない。


嘘をつくな!


自殺するな!


 もちろん、カント哲学は巨大な建造物だから、これで全てを言い表しているわけではない。しかし、その骨子は以上の4つに集約されると思っている。
具体的にどういうことか、簡単に説明を加える。



 まず、1番目。わかりやすいように、比喩的に述べてみる。
 例えば、いま地上10mから、1枚の紙を落とす。紙はひらひらと舞いながら床へ落下するだろう。これを何回も繰り返してみる。
 条件が同じならば、多少バラツキがあったとしても、きっと同じような場所に落下するだろう。
 しかし、カントは言うだろう。全く同じ条件ならば、全く同じ場所に落ちなければならないと。
 違う場所に落ちるのは、条件が異なっているからに他ならない。
 これと同じように、道徳律も例外があっては「法則」とは言えない。
 時と場合に依り判断が異なるのは、その判断の基準に欠陥があるからだ、と。


 ルールは「自律的」でなければならず、決して「他律的」であってはならない。
 他人の言ったことを鵜呑みにして、自分の頭で考えることなく、従うことがあってはならない。
 他人の言葉に従うにしても、自分の「良心の法廷」で吟味に吟味を重ねた上で、「間違いない!」と確信したことだけを「マイ・モラル・ルール」にする。
 もしも、「この場合は例外だ」「この場合はルールを破ってもよい」と思うことがあるとすれば、それは「モラル・ルール」とは言えない。なぜならば、「普遍的道徳法則」は文字通り、普遍的でなければならないからだ。疑いをもつならば、それは「普遍的」ではない。


「嘘をつくな!」。
 例えば、何かを販売するとする。心の底から自社製品を、目の前の顧客にとって最善の物であると信じて、販売することはよい。
 しかし、顧客に商品を勧めるときに一滴でも「自分が儲かるから」「自分の利益になるから」という気持ちが入ってはならない。
 相手が自分の好む者であっても、そうでなくとも、その相手にとって最善だと確信するならば、自社製品を売る。他の企業の製品のほうがよい、と思いつつ自社製品を販売してはならない。
 これは、1つの例だが、その他の場合にも該当する。


「自殺するな!」。
「哲学的に生きる」と決心したならば、自殺してはならない。自殺するとは、「考えること」「哲学すること」を放棄することに他ならないからだ。
 もちろん、死後の世界を想定する人もいるかもしれない。しかし、確実に信頼するにたる理論的根拠はない。だから私は自殺しない。


… …とここまで読んで来た人は、きっと言うだろう。日常生活で上に述べたことを100%実行しようとしたら、生活が成り立たない。誰も実行できる人はいない、と。

 そのとおり!
 1日のうちに誰だって、それと意識することがなかったとしても、いくつもの嘘をついている。

 かわいいとは思えない子どもやペットを見ては「めちゃ、かわいいですね💗」と言ってみたり、失恋した人をみれば、「次に、きっと、もっと素敵な人が現れますよ」と言って慰めてみたり。そんなことは、全部虚飾だ。

 しかし、誰にも実践できないカント哲学は、無意味なのだろうか?

 私はそうは思わない。おそらく、完全に道徳法則を実践できる人は1人もいない。しかし、カントが最も言いたかったことは「実践できないからこそ、日々、内省を繰り返せ!」ということなのだと思う。
 実践できないから、「倫理法則に価値がない、実践的ではない、時と場合による」と居直るのではなく、最も光輝く「道徳法則への尊敬の念」を忘れないこと。日々、自責の念にかられつつも、最後まで「幸福に値するように生きること」。
 たぶん、それがメッセージなんだと思っている。



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