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エッセイ | トルーマン・カポーティ
先日、アポロさんの「この頃の本の読み方」という記事を読んでいました。
https://note.com/557apo/n/nb5abc97c017d
私の最近の本の読み方と似ているな、と共感できることが多かったです。
この記事が印象に残ったのは、「あ、アポロさんもカポーティが好きなんだ」と知って、とても嬉しく思ったからです。
自分自身が好きな作家と同じ作家が好きな人に会うと、親近感って増しますね。片思いかもしれませんが😊。
カポーティにインスピレーションを得て記事を書いたことは何回かありますが、「私のカポーティ」というテーマでこの記事を書いてみたいと思います。
ふだん読んだ本について語るときは、実際に自分が読んだその本を手元に置いてパラパラとめくりながら書くのですが、このエッセイでは私の記憶だけを拠り所に書きます。それゆえに、記憶違いや不正確な引用が含まれるかもしれませんがご容赦ください。
はじめての出会い
カポーティという作家の名前をはじめて知ったのは、「ティファニーで朝食を」という映画を見たあとでした。
映画の中のヘップバーンに愛しさを感じて。コミカルな場面もシリアスな場面もあって。日本語音声で聞いたあとに、英語音声で聞いてみたり。
「Cat ! 」「Timber !」という単語が聞き取れる程度だったんですけどね。
けれども、映画を何回か見たあと、カポーティの「ティファニー」のペーパーバックを買って読もうとしましたが、その時はページをめくる程度で精読することはありませんでした。そして、「ティファニー」は、次第に積ん読状態になりました。映画のイメージを壊したくないし、という無意識的な意識があったのかもしれません。あるいは、英語の原文を読んでいると「英語の勉強!」みたいな感じになってしまって、作品そのものを楽しむという気持ちがどこかに飛んでいってしまったのかもしれません。
二度目の出会い
カポーティに再会したのは、NHKの番組で爆笑問題の太田光さんが、カポーティ「冷血」に触れた話を聞いたのがきっかけでした。「ペリー・スミス」という登場人物のことが気になって、新潮文庫の「冷血」とペーパーバックの「In Cold Blood」とそのコンプリート・バージョンのオーディオ・ブックを買いました。
新潮文庫を一通り読み終わったあと、ペーパーバックの原文を見ながら、CDを繰り返し聞きました。
そのあとは、オーディオ・ブックのCD
を車の中で聞き流したり、寝る前に流してみたり。
カポーティとは直接関係ない話ですが、この頃から車の中や自分の部屋で音楽を聞くということがなくなりました。その代わりに、「In Cold Blood」だけでなく、「嵐が丘」のオーディオ・ブック(アブリッジド・バージョン)や「車輪の下」(ドイツ語のコンプリート・バージョン)を聞くことが多くなりました。
内容よりも、外国語の音の響きを聞く、みたいな感じでした。今もそんな感じです。何回か聞いていれば、所々聞こえてくるようになってくるので、楽しくなって。
けれども、中途半端にでも意味がわかってくると、純粋に外国語の響きを楽しむという音楽的な楽しみ方ができなくなるので、次第に聞き流すということもなくなりました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E8%A1%80
「冷血」を読んだあと、トルーマン・カポーティから離れました。残虐なのに、いつも淡々としているペリー・スミスという人物が怖くなってしまった、というのも理由の1つです。
同じ残虐性をもつ主人公といっても、ドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフには、深い共感を覚えたり、応援したくなる気持ちがわいてきたのですが、ペリー・スミスはただただ怖い。
三度目の出会い
三度目にカポーティと出会ったのは、「遠い声 遠い部屋」でした。
たしか、木原武一さんの「新潮選書」(今は文庫になっているみたいです)の文学全集だったと記憶しています。
「遠い声 遠い部屋」は、「冷血」より物語に入り込みやすかったです。
ストーリーが面白いということよりも、パッと開いたページを読むと、なんとなくみずみずしい感情が心によみがえるような気がして。通読はしていないままなんですけどね。
「遠い声 遠い部屋」をざっと読んだあと、カポーティの名前が書かれた本があると、手にとって読むようになりました。
「冷血」がカポーティの代表作の1つであることには疑いはないのですが、カポーティの作品の中では「異質な作品」だったようです。
詳しく知らないのに、軽々しく「どの作品がカポーティらしいか?」と語ることは「薄学」(博学では断じてない)の謗りを受けることを免れませんが、カポーティの本領はその短編にある、と思っています。
「夜の樹」という短編が好きで、そのイメージに引きずられて、短編を書いたことがあります。
短編小説 | 信越本線夜行列車
(1)
仕事おさめだった昭和62年12月28日、上野発の信越本線の夜行列車に乗り込んだ。
混雑していた車内も、新前橋を過ぎ、水上に向かう頃には疎らになった。ほとんどの客は沼田で降りていったが、その沼田で親子3人連れの客が乗り込んできた。
「こちらの席は空いているでしょうか?」と母親らしい女性が私に語りかけてきた。
「空いていますが…」と私はこたえた。他の席が空いているにも関わらず、なぜわざわざ私のところに座る必要があるのだろう?
「もしこちらがよろしければ、私は別の席に移りましょうか?」
「いえいえ、ご迷惑かも、と思ったのですが、息子がどうしてもババ抜きをしたいと申しまして。あなたのような若くて美しい女性が一緒に遊んでくださったら、息子が喜びますから」
これから新潟までは4、5時間はかかるから一眠りしようと思っていたのだが、旅は道連れ。これも1つの出会いだから、子供が喜ぶのならそれもいいだろうと思い、「私でもお役に立てるのなら喜んで」と返した。
「あきら、良かったわね。お姉さん、一緒にババ抜きやってくれるってさ」
(2)
「じゃあ、俺がトランプを切るから」
父親は手際よくトランプを切り始めた。そして、順番に1枚ずつ4人に配った。
5回ほどババ抜きをしたが、5回とも男の子が負けた。何度も私は、男の子にババがこれだよ、と分かるようにしたはずなのに、男の子はなぜかいつも敢えてババを引くのだった。
「ねぇ、あきらくん、お姉さんはさぁ、せっかくババが分かるようにしてるんだけどなぁ」
すると男の子は、「知ってるよ。でも僕のことを子供だと思って手抜きされるのがイヤなんだ」と言った。
「そっかぁ、あきらくんにもプライドがあるもんね」
「そうそう、男のプライドってヤツ」と男の子が微笑んだ。
(3)
元気なあきらくんだったが、水上を過ぎる頃には、やはり疲れてしまったのか眠ってしまった。
「あきらくん、寝ちゃいましたね。かわいい男の子ですね」
「あの、つかぬことをお伺いしますが、あなたのお名前は?」
私は逡巡したが、下の名前くらいならと思い、「奈々美です」と答えた。
「失礼ですが、上のお名前は?」
なぜそこまで聞くのだろう?と不思議に思ったが、隠す必要もないので「八田です」と答えた。
「八田奈々美さん、初対面なのにこんなことをお願いするのもどうかと思うのですが、私と結婚していただけないでしょうか?」
「結婚!!あなたにはお隣りに奥様がいらっしゃるじゃありませんか?」
「はい、私は確かに彼の妻です。しかし、ご覧の通り、私はもう若くはないのです。あきらがどうしても妹がほしいと申しておりまして」
「ご冗談でしょう?初対面で結婚だなんて。しかもあなた方はご夫婦なのでしょう?そんなこと、できるわけないじゃなきですか!」
「お嬢さんは、あきらともきっと仲良くやっていくことができるでしょう。ねぇ、あなたもこのお嬢さんが気にいったようですよね」
「もちろんだ。このお嬢さんとなら、今すぐにでも子作りできそうだ」
(4)
おかしな話になった。見ず知らずの親子とババ抜きをするのさえ、普通あり得ないことだろう。その上、初対面の妻帯者と結婚だなんて、こんな奇妙奇天烈な話があるだろうか?
「あなた方はどうかしていますよ。特に、奥さん、ご夫婦なのに旦那に浮気をすすめるなんて」
「お嬢さん、落ちつきて聞いてくださいね。私は浮気をすすめているわけじゃないんです。私は別れますから、この人の子供をあなたに産んでほしいだけです」
「いえ、私はまだ結婚すら考えたことがありません。あきらくんのことはスキですよ。でもそれは母親としてではなく」
ここまで言いかけたとき、男が口を挟んだ。
「あきらの母親に無理になろうとなさらなくて結構です。あきらとは友達として接していただければ。私が望むことは、私の子供をあなたに産んでほしいということだけです」
「いえ、それもあきらくんの母親になるのと同じくくらい無理な相談ですよ」
(5)
「お姉ちゃん、冷たい人なんだね」
どうやら我ながら大きな声になっていたようだ。あきらくんが目を覚ましたようだ。
「あきらくんのことはスキだよ。でもさぁ、あきらくんだって、お母さんが代わっちゃうのはイヤでしょ」
「う~ん、別にお母さんが死んじゃうわけじゃないし。僕ね、どうしても妹がほしいだけなの」
「奈々美さん、どうかしら?主人と結婚して、あきらの妹を産んでくれないかしら?」
「いや、無理ですよ。だって私は…」
(6)
「わかりました。僕とは結婚もできず、あきらの妹を産むこともできない、ということですね」
「はい、残念ながらそういうことです」
「では、せめてここに、今日出会ったしるしとして、あなたのサインをいただけないでしょうか?」
「ここに私の名前を書くだけでいいんですね。わかりました。それくらいなら」
私は渡された白紙に「八田奈々美」と書き込んだ。
(7)
「じゃあ、私たちは燕三条で降ります。今日は楽しい電車旅になりました。奈々美さん、ありがとうございました」
「お世話になりました、奈々美さん」
「お姉ちゃん、ありがとう。楽しかったよ」とあきらくんが最後に微笑んだ。
私は、燕三条で3人の親子を見送った。
彼らの姿が見えなくなったとき、私は大きな疲労感に襲われて、終点の新潟まで眠り込んでしまった。
(8)
正月三ヶ日を実家で過ごした私は、1月4日、新潟駅から上野行きの夜行列車に乗り込んだ。
長岡駅を過ぎた頃、またしても、あの親子3人に出会った。
「奇遇ですね」
「お姉ちゃん、久しぶりだね。また、会えたね」
一瞬ギョッとしたが、これも何かの縁だと思った。
「あぁ、あきらくん、久しぶりだね。また、会えたね。また、ババ抜きする?」
「うううん。今日はいいや。昨日あまり眠れなかったから、沼田まで寝ていようかな」
なんだか、あっさりし過ぎる反応に私は拍子抜けしてしまった。
今日はあきらくんのご両親も無口だった。なにも話さないまま、沼田駅に着いた。
「八田奈々美さん、今回もお世話になりました。また、もしお会いすることがあったら。ありがとうございました。さようなら」
(9)
結局なんだったんだろう?
不思議に思いつつ、電車は上野駅に到着した。
本郷の自宅アパートに着くと、ポストに、年賀状とともに、一通の封筒が届いていた。
ざっと年賀状を眺めたあと、封筒を開けて見ると、
連帯保証人 八田奈々美
という文字が見えた。
あれはそういうことだったのか。
(おしまい)
カポーティには周期的に出会う
だいぶ脇道に逸れましたが、カポーティという作家には周期的に出会うようです。
一時的にはまって、離れてしまっても、必ずまた出会うきっかけがあります。
書店で「カポーティ」の名前を見かけると、手にとって読んでみたくなります。
以前書いた記事を引用します。
エッセイ | ここから世界がはじまる(再掲)
年が明けて、今年初めて "ホームの"本屋(*「よく行く書店」という意味)に行ったとき、カポーティの見慣れない文庫本が目に入った。
私はカポーティの短編が好きで、「カポーティ」とついている本を見ると、必ず手にとってみる。
必ずしも購入するわけではないが🤣、今回は、今まで日本語でも、英語でも読んだことがない、カポーティの初期短篇集なので購入した。カポーティの作品集であることに加えて、訳者が小川高義さんであることも買う決め手になった。小川さんは、ジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」(新潮文庫)の翻訳者として知られている。
読書感想文(⚠️ネタバレあり)
今回紹介する本は、14の物語を収めた短篇集である。その中で面白かったのは、表題になっている「これから世界が始まる」(Where the World Begins)。
サリー・ラムという女の子が、カーター先生の数学の授業中、ボーッと将来のことをアレコレ夢想するお話。
出だしはこんな感じで始まる。
もう二十分近く、カーター先生の授業で、しち面倒くさい代数の説明が続いていた。サリーはすっかり嫌気が差して、カタツムリが進むような教室の時計の針に目をやった。あと二十五分。それだけやり過ごせば自由になる。心楽しき大事な自由⎯⎯ 。
物語の状況はこの一段落で手にとるようにわかる。伏線にもなっている。
手渡された黄色い紙に、数学の問題を解いていかねばならないのだが、サリーは、終始、将来女優になることを夢想してみたり、インタビュアーになることを夢想したりしている。
今現在受けている数学の授業とサリーの夢想が錯綜しながら物語が進行してゆく。
一番最後は、こんな感じで終わる。
突然、サリー・ラムは笑い出した。カーター先生も、Xも、数字も、みんな遠くなった。はるかに遠い。ここまで来れば幸福だ。髪に風が吹きつける。まもなく死神と出会うだろう。
普通に読めば、サリーの夢想で終わっているように思える。しかし、カポーティの物語の多くは、最初は現実と夢想が別のものとして描かれるが、徐々に現実と夢想が交じりあっていき、両者の境界が消えていくような作品である。以前、紹介したことがある「ミリアム」と、その点で似ている。
カポーティの短篇は短いながらも、いろいろな仕掛けが隠されているような気がして、一度読んだあと、またすぐに再読したくなる。
私は本当にカポーティと出会っているのだろうか?
ここまで書いてきて思ったのは、「私は本当にカポーティに出会っているのだろうか?」ということです。
確かに折に触れてカポーティの作品を読んでいますが、拾い読みしているだけで、きちんとカポーティと作品を通じて対話しているかと。単に「カポーティ」という名前を知り、カポーティの作品をかじったことがあるという以上の付き合い方をしていないのではないかと。
小説を読むとは、いったい何を意味するのでしょうか?
エッセイ | 小説の読み方(再掲)
無事に一冊の長編小説を読み終わった。それで、「感想は?」「印象に残ったことは?」と自問すると、「楽しかった」としか言えないこともある。だったら、「いいな」と思った箇所に付箋を貼ったり、線を引いて、記憶に残りやすいようにする工夫が必要かもしれない。
内容が頭に入り、感想も言える(書ける)ようになった。読んだ一冊について理解できたような気持ちになる。しかし、読んだ一冊より、もっとその作者の思いが詰まった作品があるかもしれない。そして、他の作品にも目を通す。すると、最初に読んだ本の自分の読みが甘かったと思い至ることもある。ということは、一編の長編小説さえ、きちんと読めていなかったことになるのではないか?
一編の長編小説の字面に目を通す「作業」は、いずれ終わるだろうが、「読む」ということに終わりはあるのだろうか?一回読んでそれで終わり、ではないような気がしてくる。
一冊の小説を読むことは、非常に難しいことだと思う。
1人の作家の全集を読む意義について①
以前、小林秀雄のエッセイ「読書について」を引用しながら、次のような記事を書いたことがある。
本稿に関係のある部分だけ、抜粋します。
(1)「読書について」(小林秀雄)より
今日のような書物の氾濫の中にいて、何を読むべきかと思案ばかりしていても、流行に書名を教えられるのが関の山なら、これはと思う書物に執着して、読み方の工夫をするほうが賢明だろう。
小説の筋や情景のおろしろさに心奪われて、これを書いた作者という人間を決して思い浮かべぬ小説読者を無邪気というなら、なぜ進んで、たとえばカントを学んで、カントの思想に心を奪われ、カントという人間を決して思い浮かべぬ学者を無邪気と呼んではいけないか。読書の技術のつたないために、書物から亡霊しか得ることができないでいる点で、決して甲乙はないのである。
サント・ブウヴの教訓を思いだそう。「ついに著者たちは、彼ら自身の言葉で、彼ら自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう。」それが、たとえどんな種類の著者であってもだ。ついに姿を向こうから現してくる著者を待つことだ。それまでは、書物は単なる書物に過ぎない。小説類は小説類に過ぎず、哲学書は哲学書に過ぎぬ。
書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間がいるという、あるがままの世間の姿を信ずれば足りるのだ。
なにゆえ人間は、実生活で、論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知しながら、書物の世界に入ると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。
また、実生活では、まるで違った個性の間に知己ができることを見ながら、彼の思想は全然誤っているなどとどなりたてるようになるのだろう。あるいはまた、人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した頭に出会って、友人を得たなどと思い込むに至るか。
みんな書物から人間が現れるのを待ちきれないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。君は君自身でいたまえと。
一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしていない。諸君に何の不足があるというのか。
(2) noteについて
上の文章は、私が高校生の頃使っていた現代文の教科書に掲載されていたもの。「読書について」という小林秀雄の文章である。もうずいぶん前に読んだのに、時折思い出す。
読書に関して、小林秀雄が語った評論文だが、noteの文章を読むときにも、ある程度当てはまるのではないか?
記事の数だけこめられた思いがある。記事を読んでいると、記事を書いた人間がいることを忘れて、安易に、「この人はいい人」「こいつは悪い人」とだと考えがちだ。
片言隻句だけをとらえて、「ここがおかしい」「私とは相容れない」と決めつける。そして、心地よい言葉だけを交わす人間を味方と考えて、少しでも気に入らなければ敵と考えて一切の交流を断つ。
書物とは違って、SNSには「いいね」(noteなら「スキ」)とか、直接に「コメント」をおくることができるから、普段の読書とは異なる面はある。
だが、たった1つだけ記事を読んで毛嫌いするのは、もったいない。また、たった1つの記事に強い共感を覚えただけで「大好き」となるのも人間として浅い。
実生活において、親しい友人ほど、自分とは違う感性や趣味をもっていたりする。
しかし、相手も私も、お互いに自分の趣味を押し付けたりしない。「こうせよ、ああせよ」と言わない。基本的にお互いに「そのままのあなたでいいよ」というスタンスだ。
noteの記事を読んでいて、亡霊を得て、良し悪しを判断していないか、不安に思うことがある。
1人の作家の全集を読む意義について②
同工異曲になりますが、全集を読む意義に関する記事をもう1つ再掲します。
本稿に関係箇所を引用・抜粋します。
基本的に、古典と呼ばれるような名著を読むときには、「信頼」が必要である。
批判的であることを良しとする風潮があるが、批判するにしても、信頼がないと批判もできない。
名著を読むと、一見矛盾することが書いてある時がある。浅薄な読み方をする者は、あっちに書いてあったことと、こっちに書いてあることは違うじゃないか!、と表面的な違いをあげつらい、自らの読みの浅さを「批判できた!」と勘違いして悦に入る。
名著の読書において「あれっ?何か矛盾する!」と思った時には、「間違いだ!」と批判するのではなく、なんとか整合性のある解釈はできないものか、と考えたいものだ。
「矛盾だ!」「間違いだ!」と言うためには、少なくても1冊全体を読む必要がある。それでも足りなければ、全集を読んでみる必要がある。そうすると、その著者の表現方法のクセが分かるようになる。
作品群というものは、同じ人間が書いたものである。ふだんの人間観察をしていても、徹頭徹尾なんの矛盾もない人間などいない。完璧な論理的一貫性をもつ人間など見たことがない。それは著作物でも同じことだ。
人と長く付き合っていると、「こういう場合はA」だが、「ああいう場合はB」だということがわかってくる。
本を読むのもそれと似ている。その人の前提とすることが、第一印象と違うと思うようなときには、最初の時には読み解けなかった、もっと別の前提がある。
作者の思考を理解するためには、最初にまず「信頼」がなくてはならない。その上で、どうしても矛盾だと思うなら、批判する前に、「全集をもう一度読め!」と言いたい。きっと自らの勘違いに気づくはずだ。だてに古典となっているわけではないのだ。古典には必ず徹底したものがある。古いとか新しいということを超越する徹底したものがそこにある。
読書に終わりはあるのか?
カポーティの話題からだいぶ脱線しているが、比較的最近、1冊の本を読み終えることがあるのかどうかに関して、次のようなエッセイを書いた。
本稿に関連する部分を抜粋・引用する。
1冊の本を読み終えるとは、いったいどのような状態を指すのだろうか?
最初から最後のページに目を通せば、一般的にはその本を読んだと言われる。しかし、その中身をちゃんと理解しないまま読んだ気になっているだけかもしれない。
古典とか不朽の名作と呼ばれる作品は、いい意味で曖昧なものが含まれている。きちんと読んだつもりでも、あとになってから読むと、最初に読んだ時の感想とは異なることがある。というかむしろ、二読、三読するうちに、思わぬ発見や読み手の気持ちが変化するからこそ、名作は名作と呼ばれるのだろうとすら思う。
曖昧なものを含むものが名作だと書いたが、ここでいう曖昧とは、分かりにくいという意味ではない。理路整然と書かれているにもかかわらず、読み手の成長や時代の推移とともにテキストから読み取れることが変化していくという意味で曖昧なのだ。
ところで、読み方が時とともに変化していくのは、誤読するからだろうか?思うに、普通に生きてるだけでも経験値は上がるからだろう。読解力が上がるからだとは思わない。感情の機微が理解できるようになるからだと思う。
国語の試験では、文章に書かれていること以外のことを根拠に答えたら誤読になるが、試験を離れれば、自分の人生を投影しながら読むのが普通だろう。それを以て誤読ということには抵抗感がある。
作者の意図通りに読むことが正確な読み方だろうか?作者の意図した通りに読んで何も新たな発見がないよりも、作者の意図から外れるという意味で誤読だったとしても、創作意欲を刺激されたり、新たなものを生み出す原動力になるのなら、積極的に誤読した方がいいように思う。どうだろう?
マルクスはアダム・スミスを誤読して新たな思想をもった。レーニンはマルクスを誤読して新たな思想をもった。
その思想が正しいか、正しくないかということはさておき、誤読により新たな思想や考えが生まれるというのは真実だと思う。
結び
カポーティについて書いているはずが、いつの間にか読書論になりました。
1人の作家の1つの作品を真に理解するには、その作品だけでなく全集を読む必要があります。
しかし、全集を読むとは、1つの作品を理解するための必要条件であって、十分条件ではありません。
読むたびに「作業仮説」を立て、この読み方でいいのかと、作品と内省を行き来しながら、文字の先にいる作者の「見えざる手」と握手ができるまで対話を繰り返さなければなりません。
読書に終わりはないのかもしれません。
(9998字)
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