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この頃の本の読み方
小説を書いてみてもエッセイみたいな文章を書いてみても俳句を詠んでみてもだれかの創作を読んでみても、この頃のぼくは打算的に思われそうだという不安が強まっている。正直言うとやっぱり自分の作品は読まれたいんだけれど、承認欲が強くなりすぎたような人だとは思われたくなくて、むしろ無欲にほど近い境地じゃなきゃ自分らしいものを書けない気がする。
ただ手に届くものを見たりだれかの手に届きそうなものを見せたり、ひとまずそれで十分に幸福ではないか。なのにそうではないように伝わってしまうのは言葉が足りなさすぎる以前に感受性が落ちてるからかもしれん。今日の午後はそんな気がしてなんとなく新潮文庫の草の竪琴を開き、好きなページをぱらぱらめくっていた。
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七十頁
『───波止場の渡し板を降りて去っていった人たち。次の駅で降りた人たち。そういう人たちを一緒にしたら、きっとこの世でたった一人の人ができあがったかもしれない。しかし、実際は、世界でたった一人の人というのは、十二の異なった顔をして、百もの異なった道を行く一人の人なのだ。わたしはその人間を探しだす機会を、今、ここに持っている。あなたがその人なんですよ、ドリー。それからライリーも。あなたがたみんながその人なんだ』
(新潮文庫)
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好きな小説で何度も読み返したくてもはじからはじまで読み返すには(それはそれですごくいいもんだけど)ちょっとむずかしい。その日の計画性とかに関わってくるから。
なのでぱらぱらめくって詩を読むような、過去の作家の庭へお邪魔しにゆくみたいな心持ちで、軽く読ませてもらうことがある。いちど全部読んでいるので、それを三分、五分、あるいは十分ほどするだけでも「やっぱいいなあ」ってにやにやしちゃったりする。
そっと本を閉じて、それからぼくは珈琲をいれなおして、別にだれかに見られてるわけでもないけれど、だれかの熱烈な読者なんかにはならないぞって顔を作った。
ありがとう、カポーティ。そして大澤薫。また読みます。きっと忘れない。こんな気持ちはそうそう忘れたりできないと思うから。
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