心理臨床プラットフォームひろしま

心理臨床プラットフォームひろしまは、基本を大切にしながらじっくりと心理臨床を学びたい仲…

心理臨床プラットフォームひろしま

心理臨床プラットフォームひろしまは、基本を大切にしながらじっくりと心理臨床を学びたい仲間が集まり、自由に意見交換ができる場となることを目指しています。このブログはメンバーが共同で運営しています。

最近の記事

雑記帳40:ウィットネス

 先日のNHK「小さな旅」は、宮崎県の南端、都井岬の野生馬「岬馬」と、そこで働く若い女性スタッフの物語だった。女性は、動物関係の専門学校を卒業し、ケアや看護などについて学んできたし、そのような職場で働いていた時期もあったという。しかし、ふとしたきっかけで都井岬の野生馬を知り、強く惹かれ、遠く離れた宮崎までやってきたという。  観光地化されてはいるが、馬はあくまで野生であり、人の手が加えられることは一切ない。ケガをしていても手当てはできず、出産の時にも手を貸すことはできない。

    • 雑記帳39:呼ぶモード

       「呼ぶ」とは、声をだして名前を言ったり、こちらに来させることである。そして、それはさまざまな言葉と組み合わされることで、意味の広がりをみせる。  呼び水とは「ある物事をひきおこすきっかけ」のことである。たとえば、「彼の盗塁が逆転勝利の呼び水となった」というように。しかし、そもそもの意味は「ポンプの水が出ないとき、またはポンプで揚水するとき、水を導くために外部から入れてポンプ胴内に満たす水」のことである(weblioより)。  ポンプの下に水が来ているだけではダメで、胴

      • 雑記帳38:「言語化」というけれど

         「言語化」ということをよく耳にする。特に心理支援の目的・方針として「クライエントに言語化を促す」というふうに、わりと気軽に言われている気がする。  おそらく「言語化」が何らかのよい効果をもたらすというイメージがあるのだと思う。もっとも素朴なところでは「心を開く」というやつ・・・閉ざされた心の扉は、「言語化」によって開かれるという信念。あるいは、扉の奥に、誰にも語られなかった思いが鬱積すると身体症状(身体化)や問題行動(行動化)を引き起こすから、思いを「言語化」すべきとい

        • 雑記帳37:二つの想定外

           テレビでは、東日本大震災から13年ということでたくさんの特集が組まれている。  ある報道番組では、かつてある町に原発を誘致しようとして推進派や電力会社がばら撒いたチラシが映し出された。そこには「津波対策は万全」という文字が踊り、原発を誘致すれば過疎にも歯止めがかかるしレジャー客も増えるとアピールされていた。また、福島で原発を誘致した町はすでにその恩恵を受けている、とも。  その後、原発事故によって今も福島を離れて避難生活を余儀なくされている女性のインタビユーがあった。立

          気まぐれな断想 #38

           今回はだらだらと長くなってしまいました(7000字超え)。話の流れも、くねくねしていますので(たぶん書いた私自身、何度か道を見失っています)、もし読んでみようと思われる方がいらっしゃったら、時間に(気持ちにも?)余裕のある時にどうぞ。  最近参加したある研修会を通じて、それを終えてから、つらつらと考えていることを書いてみたい。  このブログで繰り返し書いていることだが、心理臨床の場でクライエントの話を聞くことは、とても難しいことだ。しかし、けっして少なくない人が、これも

          雑記帳36:「明辞以前」

           元々「言葉」というものをあまり信用していない。何かを言葉にする時には、そこに盛り込めないものが指の間からさーっとこぼれていく。言葉にすることは、何かを諦めるということだ。だから、そうやって伝えても、そのままには伝わっていない。こうして「伝える」と「伝わる」の間に横たわる断絶を目のあたりにすることになる。  心理臨床における一般化された定義や専門的な理論・概念のことを思うと、この感覚は加速的に強まる。「〜障害」「〜の傾向」という言葉でどれほどのことが伝わるのだろうか。世の中に

          雑記帳35:名前

           多和田葉子『献灯使』は震災後文学の代表的作品の一つとされる。その主人公の名は「無名」という。  名前はただの記号ではなく、個人を識別するものであり、命名の由来を紐解けば、そこにはパーソナルな物語が格納されていたりする。しかし、名前がないということそのものが取り外せない個別性になっているという事態。無名は震災以降の私たちの現実を象徴する存在として登場している。  「公認心理師」という資格名称は、私たちにとって名前の一部なのだろうか。たとえば、初回面接で「公認心理師です」と

          気まぐれな断想 #37

           今回は、「気まぐれな断想 #35」の続きである。  この日のセミナーの主要なテーマの一つが葛藤であったことは以前述べたとおりである。中でも興味深く、他の参加者の間でも反響が大きかったのは、葛藤という言葉には、コンフリクト=対立としての意味の他に、絡まりあってもつれるという意味もあり、心理臨床の場で生じることに関しても、特に後者の視点で捉えることが有意義な場合があるのではないかという講師の渡辺亘先生からの指摘であった。  葛藤には、「対立」の部分と「もつれ」の部分があると

          気まぐれな断想 #36

           最近読んだ本がとても興味深かった。松村圭一郎著『はみだしの人類学 ともに生きる方法』(NHK出版, 2020年)という本で、著者は文化人類学者。心理臨床に携わる人であれば、いろいろなことを考えさせられ、連想する本だと思う。他の場所に、この本に関する個人的なコメントを書いたので、よかったらご覧ください。  さて今回は、最近のグループでの読書会に参加して考えたことを書き留めておきたい。この日取り上げられていたのは、前回のお題だったMaroda氏の論文に対するBuechler氏

          心理臨床セミナー2023 第5回(2024/2/4)に参加して

          心理臨床プラットフォームが企画に参与している「2023年度心理臨床セミナー」(主催:心理相談室アフォーダンス)の、第5回「セラピストが『不安・葛藤・迷い』を感じること ―― その重要性を考える」に参加した。 不安や葛藤や迷いを感じながらクライエントに会うことは、面接者にとって決して楽なことではない。 筆者は初心の頃、<この理解で良いのだろうか><どう応答すれば良いのだろう><クライエントからの贈り物を受けとるべきか受けとらないべきか>等々等々、面接の度に千々に思いは乱れ、呻

          心理臨床セミナー2023 第5回(2024/2/4)に参加して

          気まぐれな断想 #35

           心理臨床セミナー2023「関わるところに生まれる心理臨床」の第5回に参加した。講師は大分大学の渡辺亘先生で、午前中には「セラピストが「不安・葛藤・迷い」を感じること その重要性を考える」というテーマで講義が行われた。その講義を聞いて思い浮かんだことを、私の感想として書き留めておきたい。  今回のセミナーの中心は、「葛藤」であった。私なりに要約すると、葛藤は、クライエントにも、セラピストにも避けようもなく生じてくるものであり、それを単に回避しようとするのではなく、それとしっ

          気まぐれな断想 #34

           最近、ある本を読んで(より正確には拾い読みして)、びっくりした、そして考え込んでしまった経験を書き留めておきたい。  それは、著名な出版社から公認心理師に関わる授業科目のテキストとして刊行されている本である。その本の章の一つが、精神分析的心理療法を扱った章で、そこを拾い読みしてみたのだ。  びっくりしたことは、いろいろあるのだが、一例として、本文中に登場する人名を登場順に挙げてみよう。タスティン、アルバレズ、ビオン、メルツァー、コフート、グリンバーグ(ジェイ・グリーンバ

          雑記帳34:言葉のもつ力(心理臨床セミナー雑感)

           心理臨床セミナー2023、第4回(2023年12月17日)に参加した。  前半は一丸藤太郎先生によるレクチャー「その人は『どのような人』なのだろうか」であった。  レクチャーで強調されていたのは ・心理療法は「何か意外なことが生まれるのに立ち会うこと」である ・思う通りに進むことは、まずない ・論理的・第三者的に解明する立場ではなく、かかわってみて何が起こるのか見てみようとする姿勢 といったことであった。  どれもこのセミナーではしばしば取り上げられてきたことだが、それ

          雑記帳34:言葉のもつ力(心理臨床セミナー雑感)

          気まぐれな断想 #33

           一丸藤太郎先生が講師を務められたセミナー(心理臨床セミナー2023 関わるところに生まれる心理臨床 第4回)に参加してきた。この日の一丸先生の講義の中心は、「クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること」の大切さと、その(ある意味では途方もないまでの)困難さについてであったと思う。今回のセミナーに参加して、私があれこれと考えたことを、書いてみたい。  カウンセラーは、しばしば、カウンセラー自身の理解の枠組みで、クライエントの話を理解しようとする。そこでは、理解とは、

          雑記帳33:faultからresponsibilityへ

           「責任」の捉えおなしについて、例えば國分功一郎が『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)等において論じているが、その論考は心理臨床家にとって重要な示唆である。  今、私たちの日常生活では、「責任」は「fault」、すなわち「落ち度」「過失」という意味で用いられることがほとんどである。つまり、何らかの事態に対して、その原因を特定の何かに帰属させるために「責任」という言葉が用いられている。  専門家の条件として「説明責任」ということが言われるが、それもやはり、説明が

          雑記帳33:faultからresponsibilityへ

          気まぐれな断想 #32

          (以下の記事は、少し尖った内容であることを、あらかじめお断りします。)  11月7日付の朝日新聞朝刊の、10月に開催された国際シンポジウム「朝日地球会議2023」(朝日新聞社主催)の内容を紹介する特集面(19面)に、「A I翻訳 いつかエイリアンとも」と題した記事が掲載されていた。  記事の主人公は、A I翻訳サービス「DeepL」のC E Oを務めるヤロスワフ・クテロフスキー氏。A I翻訳が普及していく中で、「外国語を学ぶ必要はなくなるのではないかとの問いに、クテロフス