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気まぐれな断想 #33

 一丸藤太郎先生が講師を務められたセミナー(心理臨床セミナー2023 関わるところに生まれる心理臨床 第4回)に参加してきた。この日の一丸先生の講義の中心は、「クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること」の大切さと、その(ある意味では途方もないまでの)困難さについてであったと思う。今回のセミナーに参加して、私があれこれと考えたことを、書いてみたい。

 カウンセラーは、しばしば、カウンセラー自身の理解の枠組みで、クライエントの話を理解しようとする。そこでは、理解とは、クライエントが語る言葉を、カウンセラーの言葉で捉え直すこと(カウンセラーの言葉に翻訳すること)である。例えば、外国語を話している相手が何を言っているのかうまく理解できないとき、普通私たちは、相手が話している言語を自分が聞き取る能力や、相手が話している言語を自分が理解する能力に限界(問題)があると考えるだろう。そして、相手が言っていることを理解できるようになるために、相手が使っている言語を学ぶ努力をするだろう。

 しかし、クライエントの話を理解しようとするカウンセラーの場合には、これとは異なる態度が見られる場合がけっして少なくない。つまり、クライエントの話をうまく理解できないとき、一部のカンセラーたちはそれを、クライエントの話に問題があるからだとみなすようである。いわく、クライエントは表面的な話しかしていない。いわく、クライエントは自分のことがわかっていない。いわく、クライエントは自分の感情を語ることができない。いわく、クライエントは他者への不信感が強くて本心を話さない。などなど。何かおかしくないだろうか? こうしたカウンセラーたちには、クライエントはしっかりとクライエント流のやり方で精一杯に自分を語っているのであるが、カウンセラー自身の理解力、あるいは少なくとも話を聞く構えに問題があるという可能性には思い及ばないようだ。どうしてなのだろうか? そこには、そうした可能性を考えることを深刻に妨げる、何らかの強力な思い込みが働いているのではないだろうか?

 そうしたカウンセラーたちの思い込みは、カウンセラーの役割と仕事そのものについての思い込みに由来しているのかもしれない。それは、クライエントとは何らかの問題を抱えている人であり、その問題はクライエント自身に根ざしたものであり、その問題を見定めて記述するためには、クライエントが用いている言語は役に立たず、何らかの理論的言語が必要であるという思い込みである。そのような思い込みに基づいて(あるいはそのような思い込みを植え付けられて)特定の理論的言語を習得することを目指している(きた)カウンセラーたちは、クライエントが用いるクライエントに特有の日常言語による語りはクライエントを誤謬に導くものであり、それを理論的言語で記述し直して、その理論的言語へとクライエントを「啓蒙する」ことで、クライエントを正しく導くことができるのだと、思い込んでいるのかもしれない。

 このようなカウンセラーたちは、クライエントの語る言葉を、不完全で誤りに満ちた言葉として、カウンセラー(が依拠する理論的言語)によって矯正されるべきものとして聞いているだろう。そこでのカウンセラーの役割は、教師に類似したものになるだろう。あるいは、教師としてのアイデンティティに親和性を感じるカウンセラーは、しばしばそのようにクライエントの話を聞くだろう。そのとき、カウンセラーは、心理臨床においてそうあるべき意味(それがどういう意味であるかについてはさまざまな議論がありうるが)でのカウンセラーであるよりは、心理学の知見やテクニックを教える教師に似ているであろう。

 「クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること」が大切であり、また困難であるのは、そのようなあり方、そのような聞き方が、カウンセラーに固有のものであり、他のどのような職業とも役割関係とも異なるものであり、それを実践できるようになるためには、時間のかかる訓練を要するからである。そして、このことが極めて重要なことなのだが、多くのカウンセラーたち(かつての私自身を含めて)は、訓練などしなくても、あるいはごく軽微な訓練を経るのみで、自分にはそれができていると思い込んでおり、それが誤った思い込みである可能性を、たとえ直接指摘されたとしても、なかなか(あるいはけっして)認めることができないのである(なので、このように書いてみても、それは多くの場合、相手に届かない)。

 そのうえで、カウンセラーたちからの、よく見聞きするタイプの反応は、「『クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること』の大切さはよくわかりました。それで、理解したら、次に何をすればいいのですか?」というものだ。ここには二重の重大な誤解がある。その大切さがわかったのなら、そもそもこのような疑問が生まれるはずはないし、そのように理解することがすべきことそのものなのである。

 このような誤解には理由があるように思われる。なぜなら、標準的には、まずクライエントの話をしっかりと聞き、それを素材に仮説を立てて、仮説に基づいて方針を定め、方針に沿って介入を行い、その結果を評価すべし・・・といった教え方がなされていると考えられるからだ。このような教え方は、あくまで説明の便宜上のことである。しかし、訓練の中では、実際にこのようなステップに分解して、それを順序立てて実施させるという教え方がなされていることが少なくないと思われる。そこに、深刻な誤解が生まれる大きな温床があるように私には思われる。

 さて、これとは異なるタイプの、しかしやはりしばしば見聞きする反応は、「カウンセラーが『クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること』が、クライエントにとってどんな意味があるのか、クライエントにとってどのように役立つのか、わかりません」というものだ。これは、見かけ以上に重要な、ことの本質へとたどり着く道につながる、的を射た疑問である。この疑問に十分に答えるには、優に一冊の書物に匹敵する分量が必要だろう(それでも足りないか)。ここでは、いくつかの要点を示すことのみで我慢しよう。

 まず、根本的なこととして、「クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること」は、カウンセラーひとりの心の中で生じることなどではなく、クライエントとセラピストの間に生じる事態である。だから、カウンセラーがそのように努めることができている場合とそうでない場合とでは、その場でのクライエントの経験のあり方が異なっており、そしてその経験のあり方こそが、クライエントにとって、クライエントが感じている困難への取り組みにとって、決定的に重要なのである(このことを説明するために数冊分の本が必要かもしれない)。

 つい先日、私が参加している読書会で、Philip Brombergの論文("Standing in the spaces")が取り上げられた。その論文では、カウンセラーがクライエントの心のうちにあると想定されるあれこれの特定の内容を理解する/されることではなく、あるいはそれ以上に、クライエントを多様な自分のあり方からなる、複合的で重層的な、全体的な存在として認識する/されることこそが本質的に重要なことであるという考えが述べられていた。この「全体的な存在」を、私は鶴見俊輔氏の言葉を借りて、「まるごと性」と呼びたいと思う。

 「クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること」とは、私なりに言い換えれば、クライエントをまるごとの存在として、そのまるごと性において、関わり合うことに努めることに相当すると思う。その何が重要なのか?

 クライエントは(おしなべて私たちは)しばしば、特定の他者のまなざしのもとに、その他者との関係のあり方に規定されるやり方で、自分の特定の一面を相手の利害関心の相のもとに、一方的にまなざしを向けられてそのまなざしに評価され動かされるという経験を積み重ねてきている(もちろん、逆も真なりで、そのように他者にまなざしを向けてきてもいる)。そこでは、自分は部分へと分解され、ひどい場合には、その分解された自分が、他者からの搾取の対象となる。

 クライエントとカウンセラーとの関係は、こうした関係のあり方とは異なる関わり合いを目指すものである。もしそうであることができなければ、心理支援の名の下に、クライエントとカウンセラーの関係は、クライエントを取り巻く他の社会的・個人史的関係のグロテスクな反復に陥ることになる。それが心理支援という枠組みの下に実践されるなら、それはクライエントを一層深く傷つけるものになりかねないことが懸念される。

 「クライエントを『客観的に』見るカウンセラー」という思い込みから脱却できないカウンセラーたち(およびそうした人たちを指導する立場の人々)は一定の割合でいるように思われる。ここでは詳述を避けるが、クライエントとカウンセラーは互いに影響を与え合っている。そうであるなら、カウンセラーの目に映るクライエントの姿は、クライエントの「ありのままの姿」ではなく、カウンセラーのまなざしに影響されて、そのまなざしに沿うかたちで現れたクライエントの姿であるかもしれない。カウンセラーが、自分自身の内に、自覚的であれ無自覚的であれ、何らかの権威を保持することに努めているような場合(例えば、特定の理論的枠組みに忠実であるとか)には、そこから発する暗黙の権力関係がより強力な影響を及ぼしているかもしれない。

 もちろん、どんなカウンセラーも、偏見から自由ではない。しかし、自分が偏見から自由でないことを深く自覚しつつ、その偏見の影響を少しでも弱めるために不断の努力を続けることはできると思う。社会の中で、生育史の中で、他者からのまなざしによって、自分のあり方を分断され、それら同士の繋がりを阻害され続けてきたかもしれないクライエント(カウンセラーもまた同様の存在である)と会うなかで、クライエントの全体性=まるごと性を育むこと、あるいは回復することに努めることが、クライエントとカウンセラーの関係において本質的な関わりのあり方であると、現在の私は考える(もちろん、それはあくまで本質[不可欠のもの]であって、それで十分とは言えない場合はある)。

 「クライエントをクライエントの語る言葉で理解すること」を、方法論として、あるいはある種の技法として受け取ろうとする人もあるかもしれない。上に書いてきたように、私のスタンスはそれとは異なる。私はそれを、心理臨床とは、心理療法とはどのような営みであるのかを理解するための本質的な基盤として受け止めたい。そうした基盤に根ざした実践こそが、心理臨床に固有の、心理臨床家にしかできない、「ならでは」の行為だと、私は思う。そしてそれは、「エビデンス」や「連携」といった言葉をもっぱら用いる語りでは届き得ない、心理臨床の「コア」であると思う。(KT)

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