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雑記帳33:faultからresponsibilityへ


 「責任」の捉えおなしについて、例えば國分功一郎が『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)等において論じているが、その論考は心理臨床家にとって重要な示唆である。
 
 今、私たちの日常生活では、「責任」は「fault」、すなわち「落ち度」「過失」という意味で用いられることがほとんどである。つまり、何らかの事態に対して、その原因を特定の何かに帰属させるために「責任」という言葉が用いられている。
 専門家の条件として「説明責任」ということが言われるが、それもやはり、説明ができないことは瑕疵であり、専門家として失格!になるという含みを持っている。言い方を換えれば、それができれば専門家と名乗れる、その認証・根拠を手にすることができるという話である。
 したがって、右に進めば「落ち度」「過失」が待っていて、左に進めば「権威」が待っている。事態を一人の人間のあり方に帰結させるという思考の両端に、それらがある。「責任」とはそのような数直線なのかもしれない。
 
 しかし、「責任」は本来「responsibility」である。この時「責任」は「response」、つまり呼びかけに応答することに関わるものであり、対人関係に開かれ、生き生きとした、双方向のコミニュケーションに貢献するものである。心理臨床家の「責任」は「fault」ではなく、あくまで「responsibility」であることを、折に触れて確認しておかねばならないと思う。
 
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 ここで思い出すのは、映画『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』(1997年・アメリカ)である。心理臨床家には比較的馴染みのある作品であろう。(以下、ややネタバレ)

 主人公の青年ウィルは、並外れた頭脳を持ちながら、粗暴で、反社会的な行動のせいで、何度も警察の厄介になっている。その背景として、ウィルが孤児だったことや里親から虐待を受けて育ったことが描かれている。ある事情からウィルはカウンセラーのショーンと面接をするようになる。紆余曲折の後、経過の終盤で、ショーンは虐待の過去について「It’s not your fault(君は悪くない)」と迫る。その真剣さに、ついにウィルは泣き出してしまう。ウィルにとって一つの転機になる場面で、映画のハイライトでもある。
 もちろん虐待の事実について、ウィルには何の「落ち度」も「過失」もない。ウィルがそう感じていたとしても。ただ、ショーンの「It’s not your fault」という言葉は、単にウィルの非を否定するためのものではない。
 大切なのは、この発言の直前に、二人の間でそれぞれに傷つき体験があるということがはっきりとコミュニケートされたことである。そうして、傷つきが「君の側のものfault」というより、「私たちのものresponsibility」へと置き換わるモーメントが訪れ、その結果として、あの言葉が生まれ落ちたのである。だからこそウィルは感極まったのだし、実は、それはショーンの転機にもなっていて、結果、私たちもそのインパクトに巻き込まれていくことになるのだと思う。 

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 専門家の「責任」を権威的なニュアンスで捉えてしまうと、場合によっては「虐待経験のあるクライエントには「It’s not your fault」と言うと良い」という極端かつ危険なハウツーができてしまうのではないだろうか。繰り返しになるが、心理臨床家の「責任」はそこにはないと思う。(W)

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