気まぐれな断想 #37

 今回は、「気まぐれな断想 #35」の続きである。

 この日のセミナーの主要なテーマの一つが葛藤であったことは以前述べたとおりである。中でも興味深く、他の参加者の間でも反響が大きかったのは、葛藤という言葉には、コンフリクト=対立としての意味の他に、絡まりあってもつれるという意味もあり、心理臨床の場で生じることに関しても、特に後者の視点で捉えることが有意義な場合があるのではないかという講師の渡辺亘先生からの指摘であった。

 葛藤には、「対立」の部分と「もつれ」の部分があるという指摘は新鮮であった。そこから私が連想したことの一つは、例えば「葛藤を抱える」という表現を使うような場合に、そこで生じていることは「もがき」「もがくこと」とも表現できるのではないだろうかということであった。

 葛藤を抱え続けることは、クライエントにとっても、セラピストにとっても、多くの場合苦しいことであり、しばしば、性急にそれを解消しようとするし、一般に、解消=solutionを目指すことが良いことだとされがちでもある。講師が投げかけたのは、このことに対する疑問であったように思う。「葛藤の解決・解消」は、一見したところクライエントに対する支援のようであるが、いつもそうであると言えるだろうか? 重要なのは、解決・解消という結果であるよりも、そこへとたどり着くまでの過程の方であり、結果として苦悩が減ることよりも、過程の中でクライエントが何を獲得するかの方なのではないか? 講師からの問いかけを、私はそのような問いかけとして受けとめたいと思う。別の表現をすれば、葛藤は解決・解消されるべき困った問題であるよりも、それに向き合うことで何か新しいものが生まれる変化の機会であるということだ。

 さて、もう少し、葛藤そのものに目を向けてみたい。対立としての葛藤は、しばしばAかBかという二項対立の形をとる。そしてしばしば、どちらがより重要なのか、どちらがより望ましいのかといった形の構図をとりやすい。しかし、ここで注意しなければならないのは、その二項対立が、見た目にわかりやすいものであればあるほど、見かけ上の偽りの二項対立であるかもしれないことである。例えば、思春期・青年期の迷いや悩みは、「自立か依存か」という形で定式化されやすいが、そしてそれはいわゆる専門家ほどその定式化を好みそうであるが、それは社会が、あるいは理論が想定する二項対立に過ぎなくて、クライエント個人が直面している固有の悩みを十分には表現できていないかもしれないし、悪くすると、そのはっきりとした形を取らない「もつれ」が、いわゆる専門家の眼差しによってわかりやすい二項対立へと回収されてしまうかもしれない。

 二項対立の考え方は、整理されていてわかりやすく感じられるが、そこが曲者でもある。それは、定式化のやり方の一つでしかないことを忘れてはならない。社会が、そして専門家が、特定の定式化のやり方を好み(ときにエビデンスの名のもとに)、さらにそのような二項対立の一方の項を価値あるものと評価するとしても(例えば「自立か依存かという定式化においては自立こそが望ましい」とする立場)、それは、その社会なり専門家集団なりの偏好に過ぎない場合があることに注意しなければならない。それ自体が、政治的に働き、権力として機能する可能性(つまり一方的な押しつけでありうること)を無視してはならない。

 クライエントの「もつれ」を、鮮やかな手捌きで「対立」へと仕立て上げて見せて、短期間で「解決」へと導く専門家もいるのだろう。それに魅了される人も少なくないのかもしれない。しかし、私個人は、クライエントの「もつれ」を大切にしたいし、それを安易に(自分が楽になりたくて)既存の二項対立の図式に当てはめて考えないようにしたいと思う。クライエントの「もつれ」に、クライエントと共に「もがく」ことに努めたい。もちろん、クライエントの意向を確かめながらの話ではあるが、それが、私にとっての心理臨床の仕事のあり方であるし、心理臨床家としての誠実性のありかでもある。

 このように書くと、一般にイメージされるような「有能なカウンセラー」を目指している人たちはがっかりするかもしれないし、そのような人たちから批判を受けるかもしれない。しかし、私は、上に述べたようなことにこそ、他の専門職にはない、心理臨床家の有能性があると考えている。自分に向き合うこと、相手を理解しようと努めること、相手にわかってもらおうと努めること、少し何かが分かり合えること、これらには、途方もない時間とエネルギーがかかるということを、私たちは思い出さなければならない。途方もない時間とエネルギーをかけても、そこへたどり着けるかどうかわからないということを、私たちは知っておかねばならない。スピードと効率が求められる現在の社会でそんな仕事は成立しないと考える人は多いだろう。そうかもしれない。それはそもそも限りなく不可能に近い仕事なのかもしれない。しかし、それを言うなら、本来、子育ても、学校教育も、そうではないだろうか?

 セミナーから受け取った問いとそこからの連想について、つらつらと述べてみた。まだ手元には取り上げていないメモが残っているけど、それはまた別の機会に活用することにしたい。(KT)

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