見出し画像

気まぐれな断想 #35

 心理臨床セミナー2023「関わるところに生まれる心理臨床」の第5回に参加した。講師は大分大学の渡辺亘先生で、午前中には「セラピストが「不安・葛藤・迷い」を感じること その重要性を考える」というテーマで講義が行われた。その講義を聞いて思い浮かんだことを、私の感想として書き留めておきたい。

 今回のセミナーの中心は、「葛藤」であった。私なりに要約すると、葛藤は、クライエントにも、セラピストにも避けようもなく生じてくるものであり、それを単に回避しようとするのではなく、それとしっかりと向き合おうとすることが大切なことであり、ときには創造的なことですらあるというのが、講義の要点であったように思う。

 特に、初心の、駆け出しの心理臨床家やその卵にとって、セラピストとしての自分が、「不安・葛藤・迷い」を感じることは、自分の「未熟さ」の表れとして(のみ)受け取られやすく、それらを感じなくなることが「成熟」に他ならないと思いなされるかも知れない。そして、そうした「不安・葛藤・迷い」を解消してくれるように思われる勉強を求めて、理論書、技法書、スーパーヴィジョン、ワークショップ、セミナーといったものに躍起になるかも知れない。しかし、その勉強が、もし、もっぱら自分の「不安・葛藤・迷い」を解消することにのみ動機づけられているとしたら、そこには大きな落とし穴が待ち構えているかも知れない。セラピストが、「不安・葛藤・迷い」を感じなくなったら、それがセラピストとしての「成熟」なのだろうか? 講師が投げかけたのは、そうした問いでもあったと思う。

 セラピストが、クライエントと会い続ける中で経験する自らの「不安・葛藤・迷い」に真摯に向き合おうと努めることが、ときに面接の行き詰まりを打開し、思いがけない新しい展開につながる契機となることを、講師は他験例と自験例のヴィネットを提示することで丁寧に示されていたと思う。

 今回のセミナーの、講師からのこうした問いかけと語りかけは、とりわけ、初心のセラピストを勇気づけるものであったのではないかと思うし、そうであったことを心から願いたいと思う。そしてもちろん、より経験豊かなセラピストにとっても、自分自身の心理臨床の仕事への取り組み方を見つめ直す良い機会になったことだろう。

 さて、ここからは、講義の内容についての、講義の内容を(勝手に)膨らませた、私の自由連想である。

 葛藤を抱えることは、スッキリとしないこと、あるいはスッキリとさせないことである。それはnegative capabilityの一部と言ってもいいかも知れない。ところが、現代社会は、私たちを「スッキリとさせる」方向へと、私たちを誘導する仕掛けに満ちている。例えば、A I技術の活用がその一例である。生成型A Iから回答を引き出すことは、私たちを葛藤から開放する助けになるのだろう。しかし、そこで得られる回答は、その引き出し方によっていくらか精緻化が可能なようだが(「あなたの望み通りにカスタマイズできます」?)、あくまでネット上のビッグデータを加工したものであり、いわば誰にでも通用する(もしくは誰にも妥当しない)普遍・一般的な回答であろう。

 「それで十分じゃないか」と言われる方も多いのだろう。しかし、普遍・一般的な「解」こそが望ましい場合もあれば、そうではない場合もあるはずだ。私たちが、私たちを直ちに「スッキリとさせてくれる」テクノロジーへの依存を強め過ぎれば、この<私>にのみ妥当する特殊・個別的な「解」を時間をかけて追い求めるエートスは痩せ衰えていくかも知れない。そこから帰結するのは、社会における、そして私たち自身における、私たちの個別性の排除ではないだろうか。私たちは、自ら進んで、自らの個別性を手放す方向へと、甘い囁きの力で、誘導されているのではないだろうか?

 近代の自然科学とそれを応用したテクノロジーは、普遍性を指向する科学である。私が考える心理療法は、それに対置されるものとしての、個別性を指向する科学である(すべての心理療法がそうあるべきだとまで主張するつもりはない。認知行動療法、システム論的な心理療法、あえて言えば伝統的な精神分析の一部も、普遍性を指向する科学を目指していると言えるだろう)。普遍性を指向する科学は、対象とする事象を統計的に処理することでその予測力を高めてきた。そうした手続きに基づいて、有効/無効の「エビデンス」を生み出してきた。そこでは、原理的に、対象の独自・個別性は捨象されている。統計を駆使する科学においては、個別の対象の振る舞いは予測できなくても、それが多数集まったマクロレベルでは予測が可能であるとされる。それは、ある集団において、確率的に、今後何が生じるかを予測することはある程度できても、<私>個人に何が起きるかを予測することはできない。いや、原理的に、個別性への関心は切り捨てられている。したがって、それは集団を管理するのに適したテクノロジーと抜群の相性を示すことになる。

 そうした科学が「エビデンス」の名のもとに私たちに提示するのは、そうした「エビデンス」を提示する社会において「有効/正解」とされるものである。普遍性を指向するということは、それが中世ヨーロッパにおけるキリスト教であれ、現在の自然科学であれ、その社会が「有効/正解」として用意したものへと包摂されることを目指すことである。このことの意味は、いくら強調しても強調しすぎることはないと、私には思われる。

 問題は、その社会のあり方にある。その社会が、一元的な価値観のもとに、斉一性の高い社会へと個人を包摂しようとするのか、多元的な価値観のもとに、多様性を許容する社会へと個人を包摂しようとするのか、その違いはおそらくとてつもなく大きいし、その社会の見かけと実態との間には大きな乖離があることも珍しくはないだろう。

 私には、現在の社会には、不可視の「踏み絵」があちこちに仕掛けられており、それを一つ一つ踏むごとに、「考えない/考えられない」方向へと誘導されているように思われてならない。「葛藤」を「効率よく」解消できる「安心」な社会は、自分について、社会のあり方について「考える力」を衰退させて、自分の存在そのものがより不確実に感じられる方向へシフトする社会であると、私は思う。その不確実さを、繰り返し「効率よく」解消する循環に入っていくのか、その不確実さにしばらく留まってみるのか、その帰結の違いは相当に大きいのではないか。

 私が考える心理療法は、後者のあり方に共に取り組もうと努める、個別性を指向した科学なのである。

 今回のセミナーに刺激を受けて考えたことはまだいろいろとあるのだが、それはまた別の機会に書くことにしたい。(KT)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?