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雑記帳34:言葉のもつ力(心理臨床セミナー雑感)

 心理臨床セミナー2023、第4回(2023年12月17日)に参加した。
 
 前半は一丸藤太郎先生によるレクチャー「その人は『どのような人』なのだろうか」であった。
 レクチャーで強調されていたのは
・心理療法は「何か意外なことが生まれるのに立ち会うこと」である
・思う通りに進むことは、まずない
・論理的・第三者的に解明する立場ではなく、かかわってみて何が起こるのか見てみようとする姿勢
といったことであった。
 どれもこのセミナーではしばしば取り上げられてきたことだが、それらを下支えし、推進するのは「言葉」であるということが、今回、強力に発信されたと思う。言い換えれば、私たちは「言葉」に十分注意しておらず(自分は注意していると思っていても)、そのせいで面接の展開が阻まれたり歪められることがあるのだ(あまりにも無自覚に)。
 (自分は注意しているつもりでも)(あまりにも無自覚に)という点が重要である。自分の無自覚さに注意を向けることで、事は動き始める気がするからである。
 
 後半の事例検討は「第二ラウンド」だった。
 
 私たちはあまりにも無自覚に、「トラウマ」「・・障害」「自尊感情」といった言葉を用いる。それをクライエントの面前で用いるかどうかに関わらず、そのような言葉の用い方自体が私たちのあり方と直結していて、その結果、クライエントとのコミュニケーションをひどく拘束することになる。
 私たちはきっと、わからない事態、困った事態に対して、不安で、怯えているのだ。いてもたってもいられなくて、自分の不安をなだめるために、そういう言葉を借りてくる。そうして、ひとり一息つくのだ。しかし、まさにその瞬間、心理療法家は(またクライエントは)、宇宙遊泳中にワイヤーを切られた宇宙飛行士のように、猛スピードで場から離脱していくのかもしれない。
 クライエントがそうした言葉を用いることもある。それもやはり「借りもの言葉」ではある。ただし、クライエントが手抜きをしているのではない。むしろクライエントはクライエントなりに、当面その言葉にすがりながら、懸命に私たちに伝える試みをしているのだ。だから、私たちは、クライエントと共に、その「借りもの言葉」に含められるクライエントならではの個別的な意味を、できるだけ具体的かつ精密に、考え、探り、生み出さねばならない。その時の言葉は当然「日常の言葉」になる。特に、比喩、形容詞や副詞、そして、語調(ヴォーカルな言語)がより重要な働きを担うのではないだろうか。「借りもの言葉」の特徴は、耳触りの乏しさだろう。
 
 あるところで話したことだが、東田直樹著「自閉症の僕が跳びはねる理由」(角川文庫)が感動的なのは、まさにこの点なのだと思う。
 たとえば、自閉症といわれる人がジャンプし続けることを「常同運動」とか「衝動性の高さ」と称するなら、それは「借りもの言葉」だ。しかし、東田は「縛られた縄を振りほどく」ことだと語る(映画では「自由になろうとして」だった)。また、空中に文字を書くという行動を「想像力の障害」「こだわり」と説明するのは「借りもの言葉」だが、東田自身の言葉でいえば「文字と一緒の僕は一人じゃない」となる。この本はきわめて優れた当事者研究だ。東田の「日常の言葉」の豊かな響きに触れた時、私は自分を振り返り、なんともいえない恥ずかしさを感じずにはいられなかった。

 結局のところ、クライエントの話を聞く時、私たちはきっと「ああ、これは、・・障害の特徴と一致している」「この話はあの理論・概念で説明できる」と考えているし、そこから無自覚にも「そのことをクライエントに伝え(自覚させ)、改善させる・自己コントロールさせる」という考えに引き寄せられている。そしてきっと、そのことが「事態を打開する」ことにつながるし、それこそが「正しい道」で「専門家としてのあるべき姿」だと夢想している。(それができない時、それはあやふやで、行き当たりばったりで、未熟な営みだと即断してしまう。)

 ところが、事例でもそうであったが、私たちがそんなことするよりずーっと前から、クライエントは着実に何かを発信しているのだ。その発信の言葉は「日常の言葉」である。しかし、「借りもの言葉」の文法に拘束されている限りにおいては、どうやら「日常の言葉」は聞き逃されるようだ。私的な発見としては、クライエントの「日常の言葉」による訴えは、クライエントなりの懸命の発信であるにもかかわらず、時としてクライエントの「トラウマ」「・・障害」「自尊感情の低さ」といった「問題」の徴候であり、したがってそれが繰り返されることは「問題」の悪化につながるとさえ見做されることがある、ということだった。
 
 いや、そうではない。むしろ逆で、「日常の言葉」がクライエントの声として聞き届けられない時に、クライエントは「問題」を増幅せざるを得なくなるのだ。そのようなことが今までの人間関係の中で繰り返された結果として「問題」になってしまったのだ。私たちは同じことを繰り返してはならないはずだ。
 
 この日、広島は冬将軍の到来でひどく冷え込み、午前中は雪が吹き付けていた。しかし、会場は暑いような、温かいような時間だった。
 講師の一丸先生、事例提供者、参加者のみなさんにお礼を申し上げたい(W)。

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