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雑記帳40:ウィットネス

 先日のNHK「小さな旅」は、宮崎県の南端、都井岬の野生馬「岬馬」と、そこで働く若い女性スタッフの物語だった。女性は、動物関係の専門学校を卒業し、ケアや看護などについて学んできたし、そのような職場で働いていた時期もあったという。しかし、ふとしたきっかけで都井岬の野生馬を知り、強く惹かれ、遠く離れた宮崎までやってきたという。

 観光地化されてはいるが、馬はあくまで野生であり、人の手が加えられることは一切ない。ケガをしていても手当てはできず、出産の時にも手を貸すことはできない。柵が壊れていれば補修をするが、馬には決して手を出さないのだ。女性はただ馬を見守り、声をかけ、様子を記録に残すだけ。
 
 きっと、多くの人は手をだしたくなるはずだ。動物のケアの専門知識をもっていればなおさらではないだろうか。わかっていながら手を出さないというのはどんな気持ちだろう。
 
 そうした時に、いくつかのことが浮かんできた。
 
 その一、河合隼雄の有名な(?)言葉。

何もしないことに全力を傾注する


(河合隼雄・谷川浩司「無為の力」PHP研究所)

 その二、先輩に教えてもらった本の一節。

 親しい女友だちが最愛のパートナーを病気で喪った。(中略)仮通夜に駆けつけ、お葬式にも出席したが、彼女にどう接すればいいのか、わたしにはわからなかった。どんな慰めをいっても、手を握っても、ハグしても、なんの力にもなれないと思った。すべてが薄っぺらくて、自分が下手な芝居を演じているような気さえした。
 (中略)火葬が行われ、参列者が骨を拾う。骨壷に彼の骨が納められていくのを、彼女が見つめる。(中略)その彼女の姿を、私が見つめる。
 その時、なにかが腑に落ちた。「見ているだけでいい。目撃者、もしくは立会人になるだけでいい、と。
 ちゃんと見ているよ、なにもできないけど、しっかりと彼女が喪主の役割を果たす姿を目撃し、いまこの時が存在したことの証人となるよ。そしてこれからも彼女が彼女らしく生きていくのを、見つめているよ。(中略)・・・そう思った。

(宮地尚子「傷を愛せるか」ちくま文庫)

 その三、ウィットネスということ。
 トラウマで有名なハーマンや医療人類学で知られるクラインマンがウィットネスという言葉を使っており、「目撃者」あるいは「証人」と訳されている。しかし、私にとって鮮やかなのは、対人関係精神分析のドンネル・スターンのいうウィットネスである。これは「立ち会うこと」「立会人」と訳されている。

 立会人がいることは、経験を物語る能力の不可欠な必要条件
 立会人の存在が自己の存在に先立つ
 自己の傷ついた部分は、それが日々の生活に影響を及ぼすにもかかわらず気づかれない。それに気づくようになるのは、進行中の関係性の中で何かが起きて、自分では知ることも感じることもできなかった苦痛に他者が気づいていることを私たちが感じるようになる時である

(スターン「精神分析における解離とエナクトメント」創元社)

 このウィットネスが大切にするのは、すでにある隠された何かを見つけ出すことを目撃し、その事実を保証することというより、まだ知らない何かが関わり合いの場において立ち上がってくるという、創造的事態への参画である。
 
 あの女性は、100頭のいる馬を一頭一頭識別して、個別な存在として認識していた。性格の違いや振る舞い方など、見事なまでに。
 きっと、あの女性は、馬との間で何かに「立ち会って」いるのだ。それは第三者には容易にはわからない。
 そしてあの女性を見ていると、私たちには、実は立ち会うことの「欲求」のようなものがはじめから備わっているのではないかと考えさせられる。それは退化しつつあるかもしれないが、そうであったとしても。(W)


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