雑記帳37:二つの想定外
テレビでは、東日本大震災から13年ということでたくさんの特集が組まれている。
ある報道番組では、かつてある町に原発を誘致しようとして推進派や電力会社がばら撒いたチラシが映し出された。そこには「津波対策は万全」という文字が踊り、原発を誘致すれば過疎にも歯止めがかかるしレジャー客も増えるとアピールされていた。また、福島で原発を誘致した町はすでにその恩恵を受けている、とも。
その後、原発事故によって今も福島を離れて避難生活を余儀なくされている女性のインタビユーがあった。立ち入りできない土地に残してきた家が毎年壊れていくのをみて、涙をこらえていた。
震災は終わっていない。
大きな津波のせいで原発が爆発した時、誰かが「想定外」の事態だと弁明した。そもそも想定できなかった、考えられる範囲を超えるものだった、残念ながらどうしようもない、という意味だ。人知を超えたものに対して、一人の人間は無力で、そこに主体的に関与などできないという話。本当は想定されていたという報道もあったけれど。
この場合、「想定外」というのは、想定しにくいものや想定したくないものを切り離し、考えないことにした、という意味になる。あるいは、そのことに関する諦めまじりの正当化。
「想定外」が起こって13年、私たちは再び「想定内らしきもの」に収まり、考えないモードに身を潜めようしている。私たちがそのようにして切り離しても、あの女性は13年間苦しんできたし、それは14年目も消えるはずはない。いや、私たちがそのように切り離すと、すぐ近くにいる当事者の背負う苦労が一つずつ増えていくだろう。
震災は終わっていない。
奥は、川上弘子を例に挙げ、自分を当事者として事態に引きつけるとまっすぐ自分自身に向かってくる怒りがあり、その怒りが紡ぐ言葉が震災前と震災後をつなぐという。
また、いしいしんじやシモーヌ・ヴェイユに基づき、次のようにもいう。
切り離すことではなく、しかしただ自己犠牲をすることでもなく、自分を当事者として参画させることが、想定外の貴重な関与を生み出す。この想定外は、上で述べた「想定外」とは全く異なる。
スターンやハーシュがよく指摘するように、それぞれに個別な二人が関わり合う以上、「思いがけない」ことは必ず起こるし、起こらない方が変だ。この想定外を尊重・注目しないということは、二人それぞれが固有な心の持ち主であるということを否認し、その二人の関わり合いを通じて心が動き出す可能性を頭から否定しているということになる。
世の中にそういううねりがあるなら、心理臨床家もそういう視点で自分を振り返らねばなるまい。心理臨床家も「想定内」に収めること、そのために手続き論に関心を向けすぎていないだろうか。それは、クライエントの近くにいるようで、実は素通りしていることになっていないだろうか。その切り離しは、ここ数年言われてきている世の中の「分断」と同じ水脈ではないだろうか。
奥の著作の読後感は、「勉強になった」というよりも、「つなぎとめられた」という方が正確だ。(W)
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