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雑記帳38:「言語化」というけれど

 「言語化」ということをよく耳にする。特に心理支援の目的・方針として「クライエントに言語化を促す」というふうに、わりと気軽に言われている気がする。
 
 おそらく「言語化」が何らかのよい効果をもたらすというイメージがあるのだと思う。もっとも素朴なところでは「心を開く」というやつ・・・閉ざされた心の扉は、「言語化」によって開かれるという信念。あるいは、扉の奥に、誰にも語られなかった思いが鬱積すると身体症状(身体化)や問題行動(行動化)を引き起こすから、思いを「言語化」すべきという論理。トラウマは話すことによって解消されるという神話も同根だろう。また、相手は自分の心に気づいていないので、それを「言語化」させることで自覚に導くという図式も古くからある。こうして、「言語化」はわかりやすい打開策として持ち出されるものと思われる。
 
 それらがまったく間違っているわけではないと思うが、でもかなり気をつけないといけないと思う。
 
(1)
 その「言語化」は、語られないものが隠された状態で存在しているという仮定と、それを明らかにすべきという意志によって進められる。
 でも、本当にそうなのだろうか。そうではなく、語りようのないものが、二人が関わり合う中で思いがけず言葉を得るという、意図を超えた「言語化」があるはず。そのあたりは現代対人関係精神分析の基本的な視点だし、日常会話でも会話を重ねるうちに話が意外な方向に展開するということはよく経験する。バウムテストの樹だって、被検査者の心を純粋に写し出したものというより、二人の関係の場で形になった心なのであり、検査者の介在を抜きにしてはならない。
 こんな言葉が思い出される。

分析家は驚くことを忘れてしまっている

(フロム「夢の精神分析」東京創元社)

 やはり人間の意思によってすべての行為が行われているということについては疑う余地があります

(中島岳志「利他はどこからやってくるのか」 伊藤他「「利他」とは何か」集英社新書)


(2)
 その「言語化」は、おそらく、心的内容、つまり「何がwhat話されるのか」を重視するものだろう。
 でも、本当にそれだけだろうか。話される内容は重要だとしても、それが「どのようにhow話されるか」がより重要である。
 トーンや口調、表情や身振りが違えば、同じ単語でも伝えられる意味は全く異なるものになる。また、どのような文脈で発せられたのか、誰に向けられているのか、そのことで二人はどのような体験を紡いでいくのかといったことに注目することで、話されたことの意味は豊かな広がりを見せる。
 サリヴァンの、あの一節が思い起こされる。

 精神医学的面接についての私の定義はまず、「精神医学的面接とはすぐれて音声的(ヴォーカル)なコミュニケーションの場である」と述べる。「もっぱら言語的(ヴァーバル)なコミュニケーションの場だ」と述べていないのに注目して欲しい。
 精神医学とはなによりもまず音声コミュニケーションの問題である。コミュニケーションとはなによりもまず言語的だという思い込みはきわめて重大な誤りではなかろうか。

(サリヴァン「精神医学的面接」みすず書房)

 そして、谷川俊太郎の言及がこだまする。

 語りというものが持っている力は、単に意味の力だけではない。聴く人に触れるというか、触覚的な意味をも持っている。

(谷川俊太郎 河合「こころの処方箋」あとがき 新潮文庫)

 そもそも、話すとは喉や唇が発した空気の振動であり、聞くとはそれを鼓膜によって受け取るという、きわめて身体的な営みであることを忘れないようにしたい。
 

(3)
 その「言語化」は、おそらく、内容として正確で、はっきりしているほどよしとされるだろう。逆に、不正確で、曖昧だと、「言語化」は不十分なものとされるだろう。
 でも、本当にそうなのだろうか。きっと正確さを重視するということは、不動の「ズバリ」を求めているということだろうが、大切なのは、不正確でも不鮮明でも、それを足がかりとして二人が大切な何かを一緒に考えを広げていく体験ができるかどうかだ。
 サリヴァンは次のように言っている。

 正確さを追求するあまり、その追求自体がコミュニケーションの上で大きなマイナスとなることがある

(サリヴァン「現代精神医学の概念」みすず書房)


(4)
 その「言語化」は、おそらく、「言語化」する側(話す人)と「言語化」される側(聞く人)がはっきり区別される構図でなされるものだ。つまり、クライエントが心を語るのであって、その後で心理臨床家はそれを「傾聴する」ということ。
 でも、本当にそれだけでいいのだろうか。
 大切にしたいのは次のようなまなざしである。

 能動性と受動性が互いに押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこに人生のリアリティがある

(千葉雅也「現代思想入門」講談社現代新書)

 だれがしゃべったか、だれの話をだれがしているかがわからなくなるような感じ

(谷川俊太郎 河合「こころの処方箋」あとがき 新潮文庫)

 例えば、いわゆる「生育歴の聞き取り」についても、心理臨床家がクライエントに尋ねさえすれば、クライエントはそれを「言語化」し、事実や情報を伝達できるのだろうか。私はそうではないと思っている。どんなに単純な情報に思えるとしても。
 

 「言語化」って、いかにも妥当で、あるいは疑問の余地のない「王道」に思えるかもしれないけれど、相当気をつけないといけない言葉だと思う。それは、臨床家のあり方を大きく分けてしまうほどのことだろう。(W)

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