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気まぐれな断想 #38

 今回はだらだらと長くなってしまいました(7000字超え)。話の流れも、くねくねしていますので(たぶん書いた私自身、何度か道を見失っています)、もし読んでみようと思われる方がいらっしゃったら、時間に(気持ちにも?)余裕のある時にどうぞ。

 最近参加したある研修会を通じて、それを終えてから、つらつらと考えていることを書いてみたい。

 このブログで繰り返し書いていることだが、心理臨床の場でクライエントの話を聞くことは、とても難しいことだ。しかし、けっして少なくない人が、これも何度も書いてきたように、聞くことは少しも難しくないと思っている(ようだ)。おそらく、「クライエントの話を聞くこと」というときの「聞く」ということが違った意味で用いられて理解されていることが、こうした見解の相違の背景にはあるだろう(そればかりとも言えないが)。このように、「聞く」という言葉を使うとしばしばすれ違いが生じるので、ここでは「聞く」という言葉に代わって、「受け取る」という言葉を使って考えてみたいと思う。

 「受け取る」という言葉を使うことの利点は、「相手の話を聞いてはいるが、受け取ってはいない」という表現を使えるようになることだ。たいていの場合、私たちは相手の話を言葉として聞くことはできても、その言葉がまとっている、言葉そのものと切り離しがたくそこにある、言葉になり切ることのないものを、受け取るまでには至らない。なぜなら、たいていの場合、その場でのコミュニケーションは、相手の言葉の文字通りの意味を理解することができさえすれば、それで用が足りるからだ。しかし、いつもそうであるとは限らない。相手の言葉が、皮肉であったり、嫌味であったり、何かのメタファーである場合には、言葉そのものの意味だけでは足りなくなる。とはいえ、これもたいていの場合、皮肉や嫌味や何らかのメタファーとして語られる言葉には、相手からの、「これは皮肉/嫌味/メタファーですよ」という何らかのサインが同時に発せられていることが多い。そうしたサインが見落とされると、「相手の話を聞いてはいるが、受け取ってはいない」という事態が生じることになる。

 今挙げた例は、比較的わかりやすい例である。なぜなら、話し手自身が聞き手に何を伝えたいかが明確に意識されている場合を想定しているからだ。しかし、心理臨床の場面では(実際には日常の多くの場面においても)、話し手自身が言葉になりきらない部分で何を伝えようとしているのかを明確に自覚している場合は、必ずしも多くないと思われる。だから、そこでは、理解と誤解の境界がはっきりとしない。そのような場合に、心理臨床の場面では、クライエントとセラピストの間の不均衡な権力関係に中で、“セラピストが理解したこと”が正当なものとして、二人の間で扱われることになる危険性がある。

 私がここで「危険性」という言葉を使うのは、私たちはしばしばクライエントの話を「受け取る」ことなく、その言葉をセラピストの持っている文脈に位置付けて“理解”してしまうからだ。私たちは、クライエントの話を「受け取る」ことなく、容易にクライエントの話を“理解”してしまうことから、なかなか抜け出すことが難しいのだ。

 このように書くと、直ちに疑問と反論が寄せられるだろう。クライエントの話を、セラピストが身につけた理論というフィルターを通じてクライエント自身の経験の仕方とは別様に“理解する”からこそ、セラピストはクライエントに働きかけてクライエントを変化させることができるのではないか、と。それが、専門職としての仕事であり、そのためにはクライエントの話を「受け取る」必要はない、むしろそれは心理臨床の仕事の効果と効率を低下させる阻害要因でさえあるのではないか、と。私は、そうは思わない。どういうことか。

 私は、クライエントの話を「受け取る」ことこそが、心理臨床の仕事の本質だと思う。それを抜きに、セラピストが技法を使うなり何なりして、不均衡な権力関係のもとに、影響力を行使することは、それが自覚的に行われるにしろ無自覚的であるにしろ、他者に対する操作に堕することになりかねないと、私は考える。心理臨床の仕事は、常に、クライエントを侵害するリスクの瀬戸際を進んでいくものなのだ。だからこそ、心理専門職には、しっかりとした倫理観と、その倫理観に基づいた判断力と、その判断を実行に移していく実践力が求められているのだ。

 ここまで、お気づきだと思うが、「受け取る」ことが何を指しているのかについては、具体的には論じてきていない。それには理由があるのだが、そのことを取り上げるのは先延ばしして、もう少し話を進めたい。

 「受け取る」という言葉を使うことには、実は大きな(もしかすると致命的な)欠点がある。それは、“受け取られるべきものがすでにある”という考え方を容易に誘い出してしまう点である(「聞く」という表現にも実は同じ問題がある)。それはそうだろう。私たちが何かを受け取ることができるのは、受け取ることのできる何かが存在するからだ。私たちは、存在しないものを受け取ることはできない。しかし、にもかかわらず、私が「受け取る」という言葉を使って表現したいのは、まさに、“まだないもの”を受け取るような事態なのである。それは受け取るという言葉の語義に反しており、そもそも間違った言葉の使い方だと言われればその通りである。しかし、やはりにもかかわらず、私はひとまずこの「受け取る」という表現を使って考えてみたいのだ。

 少し話を戻して、“受け取られるべきものがすでにある”という考え方の何が問題なのかを説明してみたい。“受け取られるべきものがすでにある”と考えられるとき、そこでは、相手の話には特定の中身があることが想定され、その中身を受け取ることに注意が向けられることになる。比喩として、贈り物を例に考えてみよう。丁寧に包装された贈り物を渡されたとき、それを受け取る人は、包装を解いた中身こそが、贈り主が受け取り手に渡してくれたものだと思うだろう。例えば、包装を解いたところ、中に美味しそうな立派なブドウが一房入っているかもしれない。受け取り手は、贈り主はこのブドウを贈ってくれたのだなと思うだろう。

 では、包装を解いたところ、中にはくしゃくしゃに丸めた白紙が2、3個転がっているだけだとしたらどうだろう。受け取り手は、贈り主は贈り物の中身を入れ忘れたのだろうかと考えるかもしれない。あるいは、入れ間違えたのだろうかと考えるかもしれない。あるいは、これが贈り物だなんて馬鹿にしていると思うかもしれない。あるいは、贈り主は贈り物として何か適切であるかを知らない人なのだと思うかもしれない。今挙げた例に共通しているのは、贈り物とは、あらかじめ贈り主が準備したものを包装して、受け取り手へと届けられるものだという、受け取り手の側の常識に基づいた考えである。では、そうした常識に基づかない考えとは、どのようなものだろうか? そもそもそのような考え方はあるのだろうか? もちろんある。

 贈り主が贈りたかったのは、中身ではなく、中身を包んでいた包装の方なのかもしれない。あるいは、何であれ何かを贈るという行為そのものであるのかもしれない。あるいは、贈り主自身どうしてそんなものが中に入っていたのかわからずに驚いて混乱しているかもしれない。あるいは、その贈り物は、そもそも受け取り手が考えるような意味での“贈り物”ではないもかもしれない。つまり、“受け取られるべきものがすでにある”と考えていると、いわば贈り物の中身に気を取られて、他に考え得る(重要な)可能性の多くが見過ごされてしまう危険性がある。例えば、先程の例をもう少し使えば、そもそも受け取り手には美味しそうなブドウに見るものが、贈り主には無価値なもの、あるいは有害なものに見えているかもしれないし、受け取り手にはただのくしゃくしゃに丸めた紙切れに見えるものが、贈り主にとっては最高の秘密の宝物かもしれない。このような場合、中身そのものが重要なのではなく、それがその二人の間の場を文脈として帯びる意味や価値こそが重要なのである。

 話をまた戻そう。つまり、私が「受け取る」という言葉を使いたいとき、そこでは、自分が何を受け取っているかは、差し当たり受け取り手にも分からないという事態をも指したいのだ。私たちがクライエントの話を聞くとき、私たちはクライエントの言葉を聞くだけではなく、その口調、表情、しぐさ、身体の緊張の程度などすべてを、少なくとも潜在的に受け取っている。たとえ十分には意識されていなくても、ほとんどが無自覚であったとしても、その時空間を共にしている限り(つまり、オンラインでは本質的にそこに制限がある)、少なくとも私たちの身体はそれに感応しているはずである。

 私たちは自分の身体の反応を通じて、クライエントから何かを受け取っている。そして多くの場合、その私たちの身体の反応は、主観的にはそれは感じとか気分として現れるが、クライエントの言葉を理解するときに活用しうるものであるし、活用することでクライエントの言葉についての理解が重層的になる。そうした私たちの身体的反応が自覚にもたらされず、活用されないとき、つまりクライエントの話を、あるいは話しているクライエントを「受け取る」ことができないとき、私たちはクライエントの言葉を辞書的な意味で理解するか、自分個人の経験のみを文脈として理解するか、自分が依拠する理論に当てはめて理解するか、あるいはそれらの混合物になるしかない。そのような事態を、私は、セラピストがクライエントの話を聞いていない事態として捉えたいのである。

 クライエントの話を「受け取る」という事態をもう少し考えてみたい。受け取り手は、自分の反応に無自覚のうちは、自分が何を受け取っているかのかわからない。より正確に言えば、それを“何か”として受け取るためには、自分の反応のどこかに注意を向けて、それをある何かとして意味づける必要がある。話を先に進める前に、まず一つ断っておきたいことがある。

 これまでの話に少し修正を加えることになるが、私たちは、自覚がなくても受け取っている場合があると思われる。ここでは、「話を聞いてはいるが受け取ってはいない」という表現は、「話を聞いてはいるが、文脈を含めたその含意を、自覚的には受け取っていない」と、より精密に表現されることになる。おそらく、心理臨床の場の多くの場面は、この水準で動いているとすら言えると思う。私たちは、クライエントの言葉を聞いてその言葉の意味を理解/誤解するのと同じくらい、あるいはそれ以上に、クライエントの話/沈黙に、多くの場合に無自覚的に、反応するのだろう。そして、その反応の質とあり方が、面接関係を大きく左右し、その関係の中で展開することを左右するのだろう。つまり、この文脈では、クライエントの話を受け取らないということは、こうした自分の反応に注意を向けないまま、したがって面接関係のゆらぎに対して無自覚なままに、クライエントの言葉そのものだけに基づいて話を理解しようとしている事態を指していることになる。

 ここまできて、その何が問題なのかを出発点よりも少し詳しく考えることができる地点にたどり着いた。第一に、セラピストがクライエントの言葉について自覚的に理解していることと、クライエントの話から無自覚的に反応していることとの間の齟齬が大きい場合に、面接は行き詰まりやすい。第二に、第一の場合からさらに進んで、セラピストが自覚的に理解していることが制約となって、自分の無自覚的な反応の中でも、自分自身を不安にさせる可能性がある特定の部分に注意を向けることが著しく難しくなっていることが、しばしばその部分こそがクライエントの話を受け取るうえで決定的に重要であるのだが、気づかれることなく放置されてしまう。特に後者の問題については、この後もう一度取り上げることになる。

 さて、話を戻して。クライエントの話を、あるいはクライエントがそこにいることを、受け取るためには、自分に起きている反応を“何か”として意味づける形で自覚することから始めねばならないのだった。自分に起きている反応は、相手から触発されて生じているものであると同時に、他ならぬ自分に起きている反応である。その反応は、相手のものであると同時に自分のものである。このとき、それをクライエントが原因となって自分に起きた反応とのみ捉えてしまうと、どこまでがクライエントに由来するもので、どこからが自分固有のものかを問いたくなるかもしれない。しかし、これは答えることがひどく困難な問いであるし、そもそも問いとしてどの程度妥当なのか分からないところがある。ここではそれを、クライエントの話を聞くというあり方でそこにクライエントと自分が共にいるという事態についての反応と捉えることにしよう(とはいえ、ここでの「〜についての」という表現は曲者であり、注意を要する)。

 ともかく、セラピストは自分の反応に注意を向けるとしよう。自分が注意を向けたものを“何か”として意味づけるとき、そこには大きく二つの種類の制約が存在すると思われる。一つは、個人のバイアスであり、もう一つはその場の影響による制約である。

 これらの要因が、その場でそのセラピストにとって可能な意味づけのあり方を制限することになる。その結果、ある特定の意味づけのあり方の可能性が、いくら注意を向けても現実化しないということが起こる。例えば、セラピストが無自覚的に自分の反応の中に悲しみの気持ちを意味づけることを避ける傾向があるとしたら、クライエントの話、クライエントがそこにいるあり方を、何らかの悲しみの感じが伴ったものとして受け取ることはひどく困難なことだろう。そのようなとき、それを悲しみの感じとして受け取り、セラピストがそのように受け取ったというあり方がクライエントに受け取られることで、クライエントとセラピストの間でその悲しみの感じが共に向き合いうるものとして姿を現すことこそが、クライエントが新しい可能性へと歩を進めるうえで非常に重要である、ということがよくある。このような事態を、ジェンドリンの考えを借りて、インプライされているものimplyingが推進されること/されないこととして捉えることも可能だろうし、そういう捉え方が、心理臨床の営みの作用機序あるいは作用原理の理解にもたらすものは、けっして小さくはないと思われる。

 ここまで、「受け取る」ことがどのようなことで、「受け取る」ことがどのように重要であるのかについて、私なりに少し述べることに努めてきたつもりだが、たぶんあまり明確にはなっていないだろう。私自身の考えに、まだまだ不明瞭なところがあるし、現在の私の持ち合わせの言葉と表現では、まだまだ届かない奥行きが遠くまで広がっている感触がある。

 最後に、少し視点を変えて、「受け取る」ことがなぜ難しいのかについて、その理由の一つを簡潔に考えてみたい。ここで言う「受け取る」ことは、いわゆる五感の中では、触覚と最も関係が深いと思われる。他の感覚と比較して触覚に特徴的なことは、触れる側と触れられる側の区別がつきにくいことである。つまり、触れる/触れられる/触れている、の境界がしばしば曖昧なのである。そこでは、自他の境界もまた曖昧になりやすい。クライエントの話を聞いて、クライエントと共にいて、自分に起きる反応に注意を向けてそこに自ら触れていこうとするとき、そこに触れることは、同時にクライエントから触れられることでもあるはずだ(本当はこのことには丁寧な説明が必要であるけれど)。そして、そこでセラピストに感じられ意味づけられるものは、同時に少なくともその一部はクライエントのものでもあるだろう。つまり、セラピストが自分の反応に触れていくことは、その触れ方が開かれたものであるほど、いわば自分の心身の領域にクライエントが影響を及ぼすことを、クライエントと自分との境界が揺らぐことを、自分に許すことに他ならない。だから、私たちは不用意にそこに近づくことはできないし、自ずとそうした危険を避けがちになる。「受け取る」などという“危険な”ことをするよりも、クライエントの話をその言葉の意味通りに受け取ることが(あるいは自分が依拠する理論のルールに従って変換することが)ずっと“安全”であると思われるのも無理はない。

 だからこそ、この「受け取る」ことを、クライエントにとってもセラピストにとっても安全であるように努めながら、しかしかなりの不確実性を抱えながら、慎重に進めていく感受性とコミュニケーションの力を高めていくことが、心理臨床家には不可欠であり、そのために訓練が必要とされるのである。それは、特定のセラピー理論やエビデンスについて学習することとは、まるで別のことだ。ここまでずっと主にセラピストの側に焦点を当ててきたので、「受け取る」という表現を使ってきたが、視点をクライエントとセラピストの二人に移すなら、そこで起きること/行われることは「創造する」ことであると言えるだろう(ここも本当はもっと丁寧な説明が必要なところ)。それは不透明で不確実であり、良いものが生まれるか悪いものが生まれるかもわからない。既成の理論や知識は、私たちの営みの有益なガイドとはなりうるかもしれないが、それは私たちがたどり着くべき目的地ではないはずだ。私たちがたどり着くかもしれない場所は、既成の理論や知識には書き込まれてはいない。セラピストが、クライエントと共に歩む過程を、既成の理論や知識に回収しようとするのなら、そのセラピストは自分が何をしようとしているかをどの程度わかっているのか厳しく自問すべきだと、私は思う。

 長々と書いてきたが、私が言いたいことは、実はごく短いフレーズで言い表すこともできる。それは、「クライエントを大切にしよう」ということだ。しかし、「大切にする」とはどういうことなのかを、言葉で説明するのはひどく難しい。ここまで書いてきた文章も、全然言い足りていない。そもそも、言葉で言い尽くすことはできないだろう。けれども、あるいはだからこそ、何度でも、少しずつ違う角度から、おそらくは結局は同じ一つのテーマを、これからも愚直に語り直していこうと思う。(KT)

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