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気まぐれな断想 #32

(以下の記事は、少し尖った内容であることを、あらかじめお断りします。)

 11月7日付の朝日新聞朝刊の、10月に開催された国際シンポジウム「朝日地球会議2023」(朝日新聞社主催)の内容を紹介する特集面(19面)に、「A I翻訳 いつかエイリアンとも」と題した記事が掲載されていた。

 記事の主人公は、A I翻訳サービス「DeepL」のC E Oを務めるヤロスワフ・クテロフスキー氏。A I翻訳が普及していく中で、「外国語を学ぶ必要はなくなるのではないかとの問いに、クテロフスキーさんは「外国語を学ぶことで脳は訓練される。異文化についても知ることができる」と話した」と記事にある。この記事を読んで私が連想したのは、もちろん、心理臨床の仕事のことである。

 A I翻訳サービスは確かに便利なもので、私もときおり利用させてもらっている。しかし、よく知られているように、A I翻訳においては、A I技術は意味処理には関与していない。A I翻訳は、Aという言語で作成された文章を、Bという言語の文章に変換しているだけであって、人間が「翻訳する」という意味での翻訳は実際には行われていない(サールの著名な思考実験「中国語の部屋」そのものの状況である)。

 英語を日本語にA I翻訳する例で考えよう。英語の文章を日本語にA I翻訳した文章を私たちが読んでその意味内容を理解するとき、私たちはいったい何を理解していることになるのだろうか?

 もう少し条件を付け加えたうえで、角度を変えて問い直してみよう。Aさんは文字通りに全く英語を知らないし理解できないとする。そのAさんが英語の文章を日本語にA I翻訳した文章を読んでその意味内容を理解するとき、Aさんは元の英語の文章を理解しているのだと言えるだろうか? Aさんが理解しているのはA I翻訳された日本語の文章だけではないだろうか?

 いや、だから、A I翻訳された日本語の文章の意味は、元の英語の意味と同じなのだから、Aさんは元の英語の文章を理解していることになるに決まっているではないかという反論が聞こえてきそうである。

 しかし、である。Aさんは、A I翻訳された日本語の文章と元の英語の文章の意味が同じであることを確認できないという設定なのだから、AさんはA I翻訳された日本語の文章を理解しているからといって、元の英語の文章を理解しているとはやはり言えないのではないだろうか?

 いや、だから、元の英語の文章とA I翻訳され日本語の文章の意味が同じであることは、A I翻訳の操作が担保しているのだから、Aさんは元の英語の文章と対照してそれがA I翻訳された日本語の文章と同じ意味であることを確かめることはできなくても、その日本語の文章が元の英語をA I翻訳した産物であるという事実を知っていることによって、それらの文章の意味が同じであることを確かめられる。だから、Aさんは元の英語の文章も理解していると言えるのだという更なる反論が聞こえてきそうである。

 しかし、である。A I翻訳は意味処理には関与していないのだから、元の英語の文章の意味とA I翻訳された日本語の意味とが同じであるかどうかは、当のA I翻訳も「知らない」のである。したがって、Aさんは、A I翻訳された日本語の文章と、元の英語の文章とが同じ意味であることを「想定する」ことはできても、元の英語の文章を「理解している」とは言えないのではないだろうか?

 いや、だから、Aさんの認識がどうであれ、AさんはA I翻訳された日本語の文章を理解することで、事実上、元の英語の文章を理解していることになるのだから、元の英語の文章を理解していると言えるのだという、さらに更なる反論が聞こえてきそうである。

 しかし、である。昨日までは適切に作動していたA I翻訳が、今日からは出鱈目な文章を作成する異常な作動を始めているとしたら、今日そのA I翻訳を利用して、A I翻訳された日本語の文章を理解するAさんは、元の英語の文章を理解しているとは言えないのではないだろうか(なぜなら、今日のA I翻訳では、元の英語の文章の意味とA I翻訳された日本語の文章の意味がもはや同じではないから)?

 いや、だから・・・この唐変木!(以下、省略)

 私が言いたいことは、やはりAさんは、A I翻訳された日本語の文章は理解するとしても、だからと言って、元の英語の文章を理解しているとは言えないということだ。Aさんが元の英語の文章を理解していると言えるのは、Aさんが英語を学んで英語を理解することができるときであり、しかも英語の理解に習熟するその程度に応じて、である。

 私が長々と繰り返しを厭わずに(むしろ嬉々として?)冗長な文章を書き続けたのは、上の議論を、そのままそっくり、クライエントの話を聞くセラピストの立場に適用したいがためである。私には「その外国語のことは何もわからなくてもA I翻訳を利用すれば問題ない」と言わんばかりの姿勢の心理臨床家が数を増しつつある気がしてならないのだ。「クライエントその人について、セラピストが学び、理解を深めるという時間のかかる仕事をしなくても、理論と技法があれば問題ない」という姿勢の心理臨床家を、私は実際に見聞きするのだ。そんなとき、私は深く静かに(いや誰から見ても明らかに?)憤らずにはいられないのだ。

 「A I翻訳技術があればもう外国語を学ぶ必要はないですよね?」という問いは、私には「理論と技法があればクライエントその人について学ぶ必要はないですよね?」という問いと重ね合わせに聞こえる。クテロフスキー氏の回答は、記事の中では上に紹介したようにまとめられているが、実際の回答はちょっと違うのではないかしらと私は思う。クテロフスキー氏の真意は、次のようなものだったのではないだろうかと、私は想像する。

 クテロフスキー氏は、次のように言いたかったのではないか。「それでも、よく脳を鍛錬して外国語を学ばねばならない。そうしなければ、異文化について知ることはできない」と。

 くどいが、私は言いたい。「それでも、よく鍛錬してクライエントその人について学ぶことができるようにならねばならない。そうしなければ、クライエントその人について深く理解することはできない」と。そしてまた、「クライエントその人について深く理解することに努めないのなら、その仕事は心理臨床の仕事であるとは言えない」と。(KT)

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