「相手のことが分からなくていい」に慣れた
10年住んだペナンで学んだことの一つは、相手のことが分からなくても、分からないままにすることだった。
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2か月前、ペナンに戻っていた。そのころ、朝の散歩を日課にしていた。起きて顔を洗うと、すぐにTシャツにスニーカーで玄関を出た。
ペナンでは、朝7時半に陽がのぼる。赤道すぐの南国だから、昼間のコンクリートの上を散歩なんてできない。その代わり、早朝や夜には、海沿いの遊歩道は、スポーツウェアでジョギングをしたりウォーキングをしたりする人たちでにぎわう。
運動用の服を持ってきていなかったから、私は、Tシャツとジーンズで、一人歩いた。海沿いを公園に向かってすすみ、海岸に出て、海辺に座り、また戻る。1時間ほどのさわやかな時間で、心もリフレッシュするものだった。
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いつものように、のんびり歩いていると、反対側でジョギングをする男性が、こちらに視線を向けているのがわかった。目があうのは面倒だと盗み見ると、背の高いインド系の男性で、ジョギング用の短パンとナイキのシューズを履いていた。
「モーニング」
男性の声に、はっとして顔をあげた。はて、誰だろう。相手は、40代後半ぐらいだろうか。サングラスをかけ、すらりと鍛えて短髪に白髪が混じる。どこかで見たような気がするが、分からない。
「モーニング」
私は表情を変えずに返事だけした。知らない人だったら、変に愛想をよくしたくなかった。
どこかであった人だろうか、以前のコンドミニアムに住んでいた人だろうか、と、その人が去ってから思い出そうとしたけれど、結局あきらめた。
きっと知らない人だ。たまたま、声をかけたのだろう。登山中に「おはようございます」というようなもので、そこにいたから挨拶しただけだろう。
実際、それ以上の会話を期待しているわけではなかったようだし。私はそう結論づけ、散歩をつづけた。
ーー
ところが、次の次の日、またその人に会う。今度は、彼はサングラスを軽くあげ「モーニング」と言った。
「モーニング」
仕方なしに挨拶をするが、誰かはやっぱり分からなかった。
そして分かったのは、なぜか、他でもない私に向けて、ピンポイントで声をかけていることだ。
私は、毎朝、起き抜けのすっぴんに、ぼさぼさ頭をゴムで一つにまとめ、よれよれのTシャツに、ダイソーで買ったクロックスの偽物で歩いていた。
どうみても「すてき」と声をかけたくなる状態ではない。
ーー
さて、その次の日。
「ああ、来たな」と思った。面倒で、気が付かないふりをしていた。モーニングときたら、それだけ返事をすればいい。
男性は、私の前で脚をゆるめた。そして、にっこりと笑うと
「コンニチハ」と言った。
??
「こ、こんにちは」
(だ、誰??)
ーーー
変なことだったなあ、と思ったけど、答えあわせをすることもなく、私は日本に戻って、まあそれでいいやと思う。
ペナンにいると、そういうことが多い。
多民族で多宗教で多言語の場所では、相手の行動が「わからない」のは当たり前だ。マレーシア人同士だって、違う民族の言葉はあまり分からないのだ。
相手のことがわかるはず、という社会は、親切かもしれないけど、少し息が苦しくなる気がする。
ペナンに住んで、「分からないことへの耐性」を、私は少し増やしたようだ。そして、それは私を、少し楽にしているのかもしれない
あのインド系の男性はなんだったのかなと、書きながら思ったけど、やっぱり分からなくて「まあいいや」と思う。
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