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過去のモノを思い出してミル。

昨日、とある年上の女性からメッセンジャーが送られてきた。数年ほど前に、東京の企業研修で半年間一緒に勉強をした、同期の女性だった。

簡単に言えば、SNSのアカウントを消したんだ。という内容だった。

とても明るい女性で、飲み会にいれば場を盛り上げ、気配りを忘れない。おそらくニューヨークでもニューデリーでもニューハンプシャーでも、彼女は同じように、人と接するだろうと想像できる。そんな女性だった。

その女性がアカウントを消して、そして僕に報告をしてきた。


「誰かに報告したくて」と彼女は言う。どうやらほかの人には告げていないらしい。どうして消したんですか、と僕が訊くと、「過去になっちゃったから。」と、答えた。

SNSで嫌なことがあったわけでも、疲れたわけでもない。とにかく、過去になったということだった。確かに、なんだか、そういうことって、あると思う。


過去になるってとても不思議な表現だなぁ、としばらく考えた。


空蝉の 世にも似たるか 花桜 咲くと見しまに かつ散りにけり




僕は何度か引っ越しをするうちに、そして何度かの大掃除をしていくうちに、

「大事なもの」が少しづつ失われた。
厳密にいえば、大事ではなくなったから手放した。

手に入れた時にはとても大事なもので、そして使っていくうちに愛着が出た。

みなさんにも、洋服やカバンや靴や本や時計やカーテン、たくさんそういうものがあると思う。

でも、それらは時間とともに、

壊れたり汚れたり、心が物に同期できなくなったりしてしまう。

そして、手放す時がくる。

物が変わるのではなく、

変わっているのは、

いつも僕らの心なのかもしれない。


僕たちは覚えていないけれど、たくさんのモノが僕たちの周りに存在していた。そして、空蝉(蝉の抜け殻)のように、その場に置いてきている。

ほら、小学生の時のあの筆箱、いま、どこにあるんでしょう。ごみ処理場で燃えてなくなっているでしょうか。それとも、実家の机の引き出しの中でしょうか。物置のなかでしょうか。中学生の時の体育館シューズ。いつ手放しましたっけ。アルトリコーダー。二十歳の頃に着ていたあのTシャツ。お気に入りだったあの帽子。友達からプレゼントされたボールペン。

どれもこれも、ただの過去なのだけれど、今手元にないそれらを思い出してみるととても懐かしくなる。過去のコトに思いを馳せることはあっても、過去のモノに思いを馳せることはなかった。旧友を思い出すような、そんな懐かしさがある。

過去を一緒に過ごしたモノたち。



いま、一番に思い浮かぶあなたのモノはなんですか?


もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。