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努力という言葉に騙されない。今日の写真は麻婆茄子。

努力とは、目標や目的を達成するために、精力的に取り組むことを指します。頑張りや労力を惜しまずに、努力を重ねることで、成果や成功を得る可能性が高まります。

「努力が足りないから何々」と言う使われ方をしたら努力の量で目標や目的が達成できると勘違いしてしまいます。

努力は報われないものです。もちろん努力なしに目的や目標を達成できる環境であれば簡単に目標達成できてしまいます。例として流れ作業の自分に合った工程を任された時などがそれに当たります。それはそれで楽しいことでは無いのです。なぜなら努力をすることが楽しいからです。努力をすることが楽しければ目標や目的が達成できなくても楽しい時間を過ごすことができるのです。例として甲子園を目指す野球があげられます。でも目標達成のために努力したのに目標達成ができなければその先の人生で努力しても報われないのだから努力は無意味だと思ってしまうのです。

目的や目標を達成するには努力も必要ですが、達成するための方法を導き出さなければなりません。分析して把握して計画を立てて進捗を確認して進めるのです。

一人一人が目標を達成するために分析して把握、計画を共有して意識を努力は楽しいと思えば良いのです。結果として目標達成できなくても次のステップに進むことで努力する意識は続くのです。

努力をしても報われないと思っている人ほど「努力しなさい」と言います。
努力することが楽しいと思っている人は言われなくても努力しているのです。そして努力している意識なく他人にもそのそぶりを見せません。

頑張ってる人が報われるとは限りません。頑張っていると頑張っていない人に疎まれるのです。そして結果が出ないと「頑張れ」と言われてしまうのです。

結果を出すために努力をしているはずなのに努力することが目的になってしまうのは楽しいからです。楽しんで努力している人はうとまれるのです。

なぜ努力が楽しいのでしょうか?

努力することが目的で努力するのですからすでに目的は達成できしまうのです。すぐに達成できることを目標にしてはいけないのです。すぐに達成できることは中間点であって本当の目標では無いのです。

目標が達成できたならば次の目標までに隙間ができてしまうのです。
挫折した時と同じく何をするのかわからなくなるのです。

今、努力していることは中間点に至る途中であって目標ではありません。
果てしない先にある目標も中間点です。その例が熊野古道です。富士登山です。熊野古道は九十九王子を経由して熊野本宮大社に至る道です。

平安時代より幾多の天皇が京都より熊野本宮大社目指して徒歩で参拝したのです。目標が熊野本宮大社の拝観ではなく、国家の平穏安泰ですから続いたのです。

努力なしで富士登山ができないように努力が目的で富士登山はできないのです。富士山の五合目までは車で行けますがそこからは徒歩です。自分一人で富士山山頂を目指して努力しても服装、コース、持ち物など準備なしでは失敗するのです。

甲子園に行きたいと努力しても行けないのです。対戦相手を知り、自分のチームを知り、勝つための作戦を練っても自分たちの実力が無いとその作戦を遂行することはできないのです。

流れ作業の一部になって確実な道を歩む努力をしても、目標達成された実感がなければ努力は楽しいと思うことは無いのです。

何事も中間点です。その先にある目標が遠すぎて見えなくても存在しているのです。はっきりと見えたとしてもそれは中間点です。中間点は軌道修正して良いのです。

私の信念が中間点での軌道修正は必要だと言っています。なぜならその中間点から見える景色は今でしか見えていないからです。

今が基準です。

#エッセイ #一万個の幸せ #パンダのポッさん