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次元の違いを自覚する。今日の写真は今日の朝食。パン、コーヒー、野菜炒め(玉ねぎ、キャベツ、卵)

物事を理解する時に次元が違うのに同じ次元(土台)で見てしまって矛盾している事に気づかない事があります。

例えば、「この壁に落書きするな」と注意書を書いてしまうと「落書きをするな」と落書きしたと思われて「この壁に落書きするな」と落書きされても叱る事ができなくなるのです。

ではどうすれば良いのでしょうか?

壁を黒板にしてチョークと黒板消しを常備しておけば落書きをしても自分で消す事ができるのです。「描かれる」を「描かれない」と考えるのは異なる次元で物事を考えているからです。「描かれる」を「描かれたら消す」と同じ次元で考えれば解決するのです。

「描かれる」「芸術的なものが描かれる」「有料で描かれる」と描かれるを前提にすれば違った解決策が浮かんでくるのです。「描かれる」「乾くと消える素材で描かれる」「剥がれる壁に描かれる」「描いている姿を全世界に生配信する」「壁の前に大阪城の堀を持ってくる」など考えれば色々出てくると思うのです。

同じ方向に向かって考えると追い風も向かい風も同じように考えられます。
次元を分けて考えるとは、視点を変える、性質を変える、時間軸、空間軸、対比対象を変えるなど一方向だけで物事を考えないことです。

「幸せになる」を次元を変えながら考察してみましょう。

天国と地獄などのように二極化して考えると「不幸せでなければ幸せだから幸せになるには不幸せにならないようにする」と両極端な考えしか思いつかなくなるのです。

「生まれただけで幸せ」と幸せを求めるのではなく既に幸せとしてしまうと幸せの定義が変わってくるのです。それでは幸せの定義を考えてみましょう。

幸せと感じるには幸せを知っていなければ幸せとわからないのです。何事もなく無事に過ごせたから幸せと思う人もいるでしょう。楽しい、嬉しいと思ったから幸せと思う人もいるでしょう。
努力がみのった。達成感がある。一汗かいたから幸せとさまざまな幸せがあるのです。

そしてどれも他人が決めることではないと言えます。他人からみて幸せだと思っても当人が幸せだとは限らないのです。その逆もしかり。

私とあなたは異なる次元にいるのです。だからお互いに話し合わなければいけないのです。

政治と経済、宗教と井戸端会議。同じ土俵で戦ってはいけないのです。
 矛盾を感じながら声の大きな人に権利を与えてしまうのです。

一人一人で幸せは異なると思って良いのです。気持ちが通じ合っている仲であれば同じ幸せを感じるでしょうがそれは少数での幸せです。

多数決の幸せは不幸せになる人がいるのです。一人一人の幸せを実現するように目配り、気配り、心配りができる事が思いやりです。

思いやりを他人に強要するのは間違っています。思いやりは自分が気づいて目配り、気配り、心配りができて、行動に移す事です。目配りとは気づく事です。気づいたら、落ち度のないように気をつける事を気配りと言います。そしてあちらこちら細かい事にまで注意を払うことを心配りというのです。

そのような思いやりで接しても落ち度があるかもしれないと思う事がさらに関係を深くするのです。

思いやりの次元で考え行動している人と他人を押し退けてでも自分が得する事にしか興味がない人では同じ土俵で戦うことはできないのです。

次元の高い人は次元の低い人を見下して行動してしまいます。でも次元には高いも低いも無いのです。次元とはその人の判断基準のことです。知らない事があればそれを知っている人とは次元が異なってしまうのです。

最初に話し合うのはその判断基準の共有化です。共有化できなければ話し合っても交わることなく平行線を辿るのです。

判断基準のすり合わせ。手持ちの駒の開示。条件の提示。以上の三つができていないと次元を合わせることはできないのです。

わたしの話を理解できる人は同じ次元に住んでいる人です。理解できなければそれはそれで良いのです。なぜなら過去の記事を読み返す機会が与えられているからです。そのような時間が無いのならばコメントで問うことができるのです。あなたを理解できるように過去の記事、全て目を通す事は不可能です。それよりも全ての記事を読んでまであなたを理解する必要は無いと思うのです。

わたしに興味を持って接していただけたらそれだけでわたしと同じ次元にいるのだと理解できます。

行いも考えも性格も好き嫌いもあなたと異なったとしても同じ次元で話し合う事ができたならば友達になれます。さらに親友、パートナー、二人で一人前となるかも知れません。

わたしのフォロワーさんは、どのような関係であろうとも同じ次元で話せる人です。

#たぬきのポッさん #エッセイ #スキしてみて


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