吉野山と桜の歴史

私の地元は奈良県です。
奈良県と言えば様々な歴史的建造物や伝統文化などもあります。今日はそこから吉野山を簡単にご紹介します。
吉野山と言えば、桜!
桜の歴史にもちょこっと触れていきましょう!

【神の花】
 桜は日本の国花です。日本国のシンボルが桜なんですね。「え!?菊じゃないんですか?!」って人!それは皇室の花です。

日本最古の歴史書である「古事記」。ここに木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)という女神が出てきます。この女神は富士山の守護神です。とても綺麗な姿をしているが、寿命が短かく、この神様が桜のモチーフになった神様だと言われています。

 古代日本人にとって桜は春を告げる木=田植えの到来を告げる木としてその頃から神聖視されていたようです。
 山梨県の実相寺には神代桜と呼ばれる樹齢2000年を超えるともいわれる桜の巨木があります。伝説によるとヤマトタケルノミコトが植えたのだとか?!

桜は昔から日本人の心に残るような花だったようで、各地にこのような伝説があります。
そもそも花見と言えば、昔は梅の花でした。「万葉集」でも梅を詠んだ歌が110首に対し、桜を詠んだ歌は43首とメインは梅の花です。奈良時代の宮廷行事でも梅の花が使われています。それが桜に変わったのが812年、嵯峨天皇の治世からだと言われています。京都の神泉苑(二条城の真南にあります)というお寺で嵯峨天皇が「花宴の節」をおこない、歌や音楽を楽しんだ。そのため神泉苑は「お花見発祥の地」として今なお親しまれており、平安時代の趣を感じる庭を眺めながら桜見物を楽しめます。

しかし花見というのはこのように皇室や貴族の遊びでした。


【吉野山の3万本の山桜】
奈良県吉野山。日本三大桜の名所の一つです。吉野山にはある桜は日本古来の桜が多く、シロヤマザクラがその中心です。その数なんと約3万本と言われてます。春には桜が山裾の下千本→中千本→上千本→奥千本と順に満開となっていきます。実はこの3万本の桜には由来があります。

 吉野山は修験道の開祖・役行者が桜の木に蔵王権現の姿を彫ったと伝えられることから、桜は御神木とされてきました。 そのため吉野は山岳信仰、修験道の聖地ともされ、中世以降にもその名が頻繁に出てきます。その修験道総本山が吉野山にある金峯山寺です。約1300年前の開山で、2004年7月に吉野山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」が、世界遺産に認定されました。ここの御本尊は勿論蔵王権現。その蔵王権現に祈りをささげて信者がお供えして(植えて)いったのが、3万本の桜の木だと言われています。

 中千本にある吉水神社の境内。ここは一目千本と呼ばれています。全景観桜が見渡せるスポットとなっています。ここは、かの豊臣秀吉が1594年の吉野山の大花見で5日間滞在した神社でもあります。境内にある庭園は花見の折に、秀吉が自ら設計した庭園だと言われています。その様子は「豊太閤吉野之花見図」にも描かれており、。
「年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」
という有名な句を読んでいます。
 秀吉は醍醐の花見も行っており、これにより花見が一般民衆の間に広まったともされてます。


【各時代の裏舞台になった吉野山】
 吉野山は修験道の聖地ですが、ここに3年間修業のためにこもったのが平安時代末期の僧である西行法師です。その西行が住んでいたとされる西行庵や水を汲んだ苔清水も今も残っています。
「吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりけり」
西行が如何に吉野山に惹かれていたかが分かる句です。

この西行を尊敬していたのが江戸時代の俳人:松尾芭蕉であり、彼も2度吉野山を訪れ、
「露とくとく 試に浮世 すすがばや」
という句を詠んでいます。

先程紹介した吉水神社も1185年に、源頼朝に追われて吉野山に逃げ込んだ源義経が静御前や弁慶らとともに隠れ住んだ場所でもあるし、1336年には吉野へ行幸した後醍醐天皇が一時皇居とした場所でもあり、のちに南朝を興したのも吉野山だった。
 そんな様々な歴史を裏で支えていたのがこの吉野山でもあるというわけです。ここに書けばキリがないくらいの話がまだまだありますが、春には歴史を感じつつ、一度訪れてみてはいかがでしょう?

 そんな吉野山で食べられるご当地お菓子が、葛餅です。
外は吉野の本葛を用いており、中身は小豆を毎朝その日に炊いて包んでいます。行かれた際はぜひご賞味ください。


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