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強い言葉を使うことの違和感と、その否定。

 悪意ではなく、自分の信念のために。
 資本主義、その不快感について考えてもいいはずだ。人を煽るような言葉や批判についても。
 自分が強い言葉を使うことに、良心の呵責はもうない。だって、すべては伝えるための手段だ。それが自分の生き方になった。そう決めた。それで後悔することはしない。ただ一点。『人のために』という僕の信念、分水嶺を守ることができれば。
 僕には幸せにしなきゃいけない人がいるんだ。だから、別に文句を言われたって構わない。それは優しさじゃなく、単に臆病なだけだ。
 自分の考えを言わないのは臆病だし、実際にそれを批判されることなんかはあまりないのだ。だから僕の中に息づくそれを、存分に使えばいいし、もっと学ぶべきだ。
 体に染み込んでいる言葉をもっと使っていい。僕にはそれができるだけの積み重ねがあるし、現状でもそれは続いている。
 読んだもの、書いたものは僕の血肉になっていくんだ。どうしても、否定することはできない。それは食欲や性欲を否定するようなものだ。それが自分なのだ。性なのだ。理性で抑えつければいいことでもない。
 他人にまったく影響を及ぼしたくないなら、文学などできない。人を感動させることなどできない。わかっているはずだ。そこで迷っていてはいけないことも。僕は決めたはずだ。
 エンタメが好き。よく練られた物語も好き。考えさせられるような物語も、静的なもの、熱のこもったものも好きだ。好きなら、表現したっていいじゃないか。どちらかを否定するんじゃなく、全部詰め込んでやれ。自分のやってきたことを捨てるな。全部抱えてもっていけ。それ以外に道はない。人は憧れからは、逃れられないのだから。

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