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自分をただの実験台として捉えれば、なりたい自分になれる。


 習慣を学ぶ。それが指針として自分の中にある。
 それは結構長いあいだ取り組んでいること。もはやそれ自体が趣味みたいになっている。

 長く取り組むことは、習慣の性質でもある。
 時間をかけて、ゆっくりと自分のことを変えていく。『毎日、少しずつ』。それが重要なことだ。


 というか大多数の人間は急に変わろうとしても変われない。つい劇的、ドラマチックなものに目を奪われてしまうのは、ないものねだりだから。

 主人公が問題に行き当たり、それを解決する。そうするとそれ以降、そのことについて頭を悩ませることなく、物語は新しいステージへ向かう。エンタメや娯楽作品なら、これが手っ取り早い。

 でも現実はそうじゃない。きっといつだって、変化には時間が必要なんだ。

 そこに感情への隷属はない。より強固な信念で、より大きな感動で、自分を変化させたいと思うのは、ある意味でもっとも受け身な態度だと思う。

 自分の感情というのは、それを乗り越えたときに初めて慈しめるものなのかもしれない。怒っているときに、自分や相手のことを考えられなくなるように。


 僕は、毎日の生活に、少しだけシンプルな行動を組み込むことが大切だと断言する。

 そしてそれこそが、自分を変えることができるという自己効力感にもつながる。「自分は、自分のなりたいようになれる!」という希望。

 それは『自分を実験台にする』ようなマインドを伴っている。「マウスにこういう刺激を与えたら、こういう反応をした」みたいな。

 そんなありのままの反応を、観察して、楽しんで、驚く。自分という生き物は、常に自分の知らない部分のあるものとして捉える。そこに良し悪しはない。ただ『そういう生き物』という結果があるだけだ。

 それは自分の中の可能性を探る旅と言える。僕は習慣を学び始めて、何度もこういう発見に遭遇している。

 毎食自炊ができる、毎日文章が書ける、人のために行動できる……。そのほとんどが感情ではなく、小さな行動、つまり習慣によって得られたものだ。


 こう書くと「自分にはなにもできない」とただ途方に暮れていたことも、懐かしく思える。かといって、実はその絶望がなくなる、ということではないんだけど。

 ただ、今それはいずれ乗り越えられる課題として、僕の前に立ち現れてくる。

 むしろそれをいかに乗り越えるか。ということを考えれば、絶望が楽しくもある。ゲームで新しく厄介なボスに出くわしたときのように。

それが『自分を大切にする』ということなのだと思う。


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