見出し画像

ヌードを撮らなくなった理由、ヌードを撮る理由

写真を始めた時、私はまず私自身を撮影した。セルフポートレートのヌード撮影。それ以外何も撮れる気がしなかったし、それしか目的がなかった。

私にとってヌードは傷だ。
体の美しいラインとか、綺麗なパーツに注目しないわけではないけれど、私にとって女体美は傷が美しいことを表すための演出材料。
人間の個性には心の傷が刻まれている、性格にも顔にも身体にも過去を纏っている。人間は顔を取り繕うのは上手いけれど、裸体は無防備に裸体でしかなくなる。過去は服を脱いだらごまかせないと私は思う。

私は私の傷を写した。
痛みを説明するように、怒りを表明するように、悲しみを語るように。
私自身が傷の塊だと叫ぶような激しい感覚が自分の中にはっきりとあった。
私の作品を見た人は、その傷の雰囲気に緊張してしまう人もいたし、感情移入してしまうのか苦しいと言う人もいた。女性の中には泣いてしまう人もいて、他人に伝わるものがある程度は私の傷の通りであることにほっとしていた。

しかし、SNSだとこれが崩れる。この重めなトーンの写真にまさかのハートマークのコメントが付いたり、もっとあなたが見たい!なんて方向性の違うコメントをされたりと、ちょっとしたカオス。そのうちそんなコメントも消えるかなと思っていたけど、何年経ってもなかなか消えない。

個展会場では、女の胸は薄いモノクロがいいのに、どうしてこんな濃い色にするんだ!とお怒りの男性客に遭遇した。私は笑った、薄い色の胸がお好きなんですね!と返事しておいた。今でもこの時のことが忘れられない。(実際はもっとピンポイントなパーツについてお怒りでした)私のお客さんだと、この方が唯一の困った人だったけれど、写真展が初めてでグラビア写真しか知らなくてって人はそこそこいたと思う。そういう人のほとんどは写真作品って存在がわからないらしく、写真の話をしても不成立だし、私は深く話すことはしなかった。

疲れたなーと強く思ったのは、知人の写真作品について男性客が発言した時だ。男に見られたくてヌード写真を撮ってるんですか?と知人に話しかける男性。もう驚きでぽっかーんだ。グラビア写真しか見たことないですね?世の中にはそうじゃないヌード写真の作品ってものがたくさんあるんですよ!と助け舟を出したが、呆れ怒り疲れすぎたエピソードだった。

アートに興味のない人にとってはヌード写真はただのヌードでしかない。性的対象として鑑賞し消費するためのヌード。
それはそれで構わない、私にその人の感性は関係ないし、全く知らない人だし。
でも、そういう人ほど絡んでくる。私はSNSでカオスな反応をされることに疲れきってしまったのだ。私の作品には男性に見せるためにヌードになるのか?なんて認知の歪みを起こしたコメントはありません。しかし、それでも心がすり減る。
個展会場でヘラヘラしながらスタイルいいっすね~みたいな人はいたけれど、中学生男子か?くらいの心境で受け流していた。受け流していても、ストレスは蓄積したんだと思う。私は前のようにはヌード撮影をしなくなった。自分の生きた証である傷をヘラヘラした奴らに見せるのが、心底嫌になった。

こうゆうわけで、私は全く自分のヌードを撮らなくなった。それと他の女性のヌードも。それを不思議に思っていた人もいたようだ。撮らない間、わりと心は平穏だった。SNSと個展会場での無配慮な反応に傷付けられないのは精神面が安定する。(これがあることがどれだけ生きづらいか!)


しかし、私はやっぱりヌードを撮影し始めた。セルフポートレートでのヌードは撮らないけれど、他の女性のヌードは撮影は再開した。
時間を空けたことで良い方向に向いた、不思議とヘラヘラした客が来なくなったからだ。ヌードのテーマがフェミニズムであることを表したから、そういう人が消えたのかなとも思う。

女性が抱える問題はあまりに多い。私は物心ついた時から、性差について怒りを持っていた。性被害のことだけでなく、女性は女性というだけで多くの痛みがある。私は活動家として何か出来るわけではない、でも自分の作品の中で話せることはあると思う。それに、被写体活動をしている女性達が経験している痛みを私もよく知っている。だから、私は私が出来ることをする。

自分のヌードは、もう撮らない。
私の痛みはたくさん話したし、傷は修復期だ。
これから私についてはヌードではない表現になる。

ここから先は

604字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?