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中村文則さんの『最後の命』を読んで、人と分かり合うことを、はじめから諦めている人間が、だからこそ、人と深く繋がることを求めてしまう哀しさと滑稽さと、だからこその美しさと尊さを感じた。

世界に接するのに一枚の布を必要とした主人公と、『今から、人に嫌われる話をする。読んだ人間の全てが、眉をひそめるような話を』と語らなければならなかった冴木。お互いに完全には近づけず、気を遣い合ってしまったこの二人に対して、ナイーブで繊細なこの二人に対して、僕は特別な感情を持っている。
(中村文則『最後の命』文庫版あとがきより)
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昔、ある女性と両想いだと分かった夜に、「あなたが、いつか、こんな僕のことに嫌気が差して嫌いになる日が来ると分かっていても、僕はそれでも、それでも構わないからあなたと付き合いたい」みたいなことをメールして、「これから付き合おうという時になに言ってんの」と怒られた。

今から振り返ってみて、あの日のことを反省する気持ちは少しも沸き起こってこないが、彼女が怒った理由はなんとなくは分かるようになった。

昔から僕にはそういうところがあって、文章ですら上手に思っていることを伝えられないのだから、実際に相手に話をする中で自分の本意を分かってもらうのは至難の技だと思っている。

だから、そもそも僕は「相手には分かってもらえなくて当然」という前提で人と付き合っている節があって、それを「クール」とか「実は冷たい」とか「心を開いてくれなくて寂しい」と言う人もたくさんいた。

「後悔してるとか葛藤してるとか、そんな話を、誰かにしたところで、分かってもらえるはずないし、そうであるなら、話さずに誤解されたままの方がいいよ」

まるでドラマか小説の中の台詞のようで恐縮だけど、つい先日、僕がそう言い放った相手は20年、寄り添った妻だった。

断っておくと、普段の僕はどちらかと言えば饒舌な方だし、かなり社交的だし、「ひらのさんって悩みとかあるんですか?」と言われてしまうタイプだ。

一昨日も大学の同期に「相変わらずアホだな」と失笑されたばかりだ。

でも、僕の中には、自分でも説明できない感情が渦巻いていて、それが時に他の人に対する心の距離を作ってしまうことを僕は知っている。

そして若い頃はともかく、今となっては、それを誰かに説明したり分かってもらおうと思ったり、ましてや、それに共感してもらおうなんて気持ちはさらさらないというのも確かなことだ。



中村文則の『最後の命』を読みながら、親友であるキクチくんからもし冴木のような告白をされたら、僕はそれを受け入れることができるだろうか、ということを考えていた。

受け入れる?

なんだろうか、それは。

果たして、キクチくんは、僕に「受け入れてもらいたい」と思うだろうか。

目の前の人を「受け入れてあげるのが正である」と考えるのは、僕の傲慢なのではないか。

と次々に考えながら、たった今、「あー、ほんとに男の子ってややこしい」と匙を投げたところで、この文章を書き始めている。



僕は本書を、救いようがないからこそ美しい友情と恋愛の物語として読んだ。

人と分かり合うことを、はじめから諦めている人間が、だからこそ、人と深く繋がることを求めてしまう哀しさと滑稽さと、だからこその美しさと尊さ。

それは僕の心の深いところに突き刺さってしまったが故に、僕はそれを誰かと共有したいとは、今、まったく思っていない。

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