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家族・親子関係で血の繋がりより大事なもの

突然ですが、あなたにとって、

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家族や親子の関係
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において、一番大事なことは何ですか?

「血が繋がっていること」

でしょうか?

たしかに、

「血の繋がりには勝てない」

という言葉があるくらいですから、
一つの要素として大事かもしれません。

その一方で、

「産みの親より育ての親」

という言葉もあるように、たとえば、

  • 両親が離婚・再婚して新しい親や姉妹兄弟ができた

  • 養子として子どもを引き取り育てている

こういった人たちもいて…。

「血が繋がっていないから家族や親子ではない」

とは、けして言えないと思うのです。
(逆に、実子でも虐待したり、
殺害したりする親もいますしね)


なぜ、私がこのような話をしたのかと言うと、、、

今回は「私たちの作品紹介」として、
夫と私で作り上げたオリジナル曲を
紹介させていただきたいからです。
※作詞は夫の友人のプロデユーサーです。

曲を作ったのは3年前。

===========
私と結婚し、ついに

「あるもの」

を知ることができたことによって
夫の人生がどれほど変わったか?
===========

そのあるものを与えてくれた人に
対する感謝の想いを綴った曲です。

あなたにとって何か
「人生に役立つ情報」などを
得られる曲ではありません。

ただ、、、

この曲を通して、日本とは異なる
ウガンダの結婚・家族事情を知り、

「本当の家族・親子とはなにか?」
「血の繋がりを越えた家族・親子の愛があること」

について考える機会にしていただけたら、嬉しいです。

それでは始めていきますね。


ウガンダのカジュアルな結婚・家族事情

はじめに…。

私たちが作った曲の内容を理解できるよう、
ウガンダにおける結婚と家族事情について
少し説明させてもらってもいいでしょうか?

ウガンダでは正式に入籍することなく、
事実婚を続けているカップルが多いです。

1つには、入籍の手続きにお金がかかること。

法的には未婚のまま同棲を何十年も続け、
子供が大きくなってからようやく入籍します。


あくまで私の印象ですが、、、

日本と比べて若者はカジュアルに恋愛し、
家族計画や自分たちの経済事情を考えず
子どもを作ります。
(というか、妊娠はして当たり前のもの)

私自身、けして恋愛や妊娠を
否定するわけではありません。

むしろ、、、
恋愛し、その結果として
子どもが授かり誕生するー。

このこと自体は、とても
すばらしいと思っています。


問題は、その後なんです!

何が問題なのか? と言うと…

子どもが生まれた後に、夫も妻も
それぞれ別のパートナーを作り、
新しいパートナーとの間にも
また子どもができ、生まれていく。

夫の親戚や友人にもいますが、、、

前妻や前夫の連れ子が新しいパートナーに
受け容れてもらえないと、当然ですが、
自分では子育てを続けていけません。

その結果、しまいには育児を放棄。

家族環境に恵まれていれば、その子は
親戚や祖父母の家で育ててもらえる。

しかし…。

世話してくれる人が見つからず、
ストリートチルドレンになるしか
生き抜く道がない子どもたちが
沢山いるのです。

※こういった子どもたちが、ギャングになり
窃盗などの犯罪に手を出していると言われています。

兄弟姉妹のあいだで、
父親または母親がすべて違うー。

こんな家庭も珍しくありません。

継母の下着を洗わされた手で…

実は、私の夫もその一人。
幼少期に両親が離婚したからです。

ケニア人である母親は、
一人息子である夫をウガンダに残して
お隣のケニアに帰ってしまいました。

彼が7、8歳の頃。
一度ケニアの母親を訪れていますが、
その時には母親は既に再婚していて
腹違いの妹も幼児になっていました。

それ以来、夫は20年以上も
母親と会っていないそうです。

夫を引き取った実の父親は、
その後に再婚を繰り返したので、
父親が再婚をする度に、夫には
新しい継母ができていきました。

でも、夫はどの継母からも
受け入れてもらえなかった。

同じ屋根の下で暮らしながら、
継母と父親の間にできた子どもは
両親と一緒に食事を食べられる。

なのに、夫は…

「素手で継母の下着(パンツ)の
洗濯をさせられ、食事に呼ばれても
手を洗うことさえ許されなかった。

だからパンツを洗った
汚い手のまま食事をした」

そんな事もあったと言います。

今でこそ、人々はスプーンなどを使って
食べるようになりましたが、当時は
素手で食事をするのが習慣でした。

なので、私はこの話を聴いた時、
思わず吐きそうになりました。

話を戻して…。


継母との関係が上手くいかなかった夫は、
父方のおばさんやおじさんの家を渡り歩き、
最終的には祖父母に育ててもらったのです。

1990年代。小学生の頃の夫(中央)と、祖父母、おば、腹違いの妹らと。

祖父母の家には、同じく母親に別の男が
できて育ててもらえなくなった従妹や
腹違いの妹たちが暮らしていました。

こちらの記事にも書いていますが、

実の両親から、養育費も学費も
十分に出してもらえなかった夫。

それでも学校だけは諦めたくなくて
日雇いでレンガ造りの仕事をして
自力で学費を払っていた、

なんて経験もしています。

こんな風に、両親の愛を知らずに育った夫。

そんな夫の人生が、

「私との結婚で大きく変わった」

と言います。

一体、どういうことなのか?

前置きが長くなりましたが、
その理由がこの曲の中にあるのです。

夫の人生を変えた「無条件の愛」

もしかしたら、今すぐには聴ける
時間がないかもしれませんので、
日本語の訳をお伝えしますね。

【Thank you papa & mama】
孤独だった僕の人生を変えた
「無条件の愛」のストーリー

おかあさん、おとうさん、
この僕に無条件の愛をありがとう

2人の愛のおかげで
僕の人生は本当に変わったんだ

僕がどれだけ感謝しているか
言葉ではとても伝えきれないよ

子どもの頃
僕は実の両親に
育ててもらえなかった

代わりに育ててくれたのは
おばさんとおばあちゃん

だから
両親の思い出はほとんどない

父親に叱られた記憶も
母親に甘えた記憶もないんだ

僕は両親の愛を知らず
寂しくて孤独な少年だった

いつも、両親の愛、
特に母親の愛に飢えていた

両親と一緒に暮らし
愛と思い出を分かち合える友達。

そんな友達のことが
うらやましくてうらやましくて…
たまらなかった

僕を引き取ってくれる人を求めて、
家から家を渡り歩いた日々

いつも父親と母親の愛を
探していたけれど、とうとう
手に入れることはできなかった

どんなに辛い日々だったか、
今でも忘れることができない。

だけど、突然
そんな僕の人生に
ターニングポイントがやって来た

一人ぼっちで寂しかった
この僕の人生に。

結婚して、義理の両親ができたから。

いつでも僕のそばに
寄り添ってくれる
おとうさんとおかあさん。

2人のおかげで、僕は
両親の愛とはどういうものか
ついに知ることができたんだ。

でも、
2人が僕を愛してくれるまでは
けして簡単じゃなかった。

初めて2人に会った時は、
ものすごく反対された。

だけど、2人は少しずつ
僕を理解し受け入れてくれた。

そして最後に、
僕たちの結婚を認めてくれた。
たった一人の娘を僕に
預ける決心をしてくれたんだ。

その決心の裏に、
どれだけの想いがあったのだろう?

それを思う時、僕は
感謝してもし切れない。

これからの人生、
僕は彼女とともに
2人からもらった愛を
ウガンダの人々へ届けていくよ

おかあさん、おとうさんが
僕に与えてくれたような愛で
ウガンダの人々のために
尽くしていきたいんだ

おかあさん、おとうさん
この僕に無条件の愛をありがとう

2人の愛のおかげで
僕の人生は本当に変わったんだ
僕がどれだけ感謝しているか
言葉ではとても伝えきれないよ

お父さん、お母さん、
ありがとう

訳詞:by Opiko

血の繋がりより大事なもの

私自身は、

「本当の家族とは何か?」
「本当の親子とは何か?」

まだ明確には分からないんです。

夫との間に、自分たちと「同じ血」で
繋がっている子どもが一人もいないー。

それもあると思います。


ただ、ウガンダに移住して8年目。
夫も含めて、様々な家族の状況を知ったこと。

  • 夫に対して、実の息子のように愛を与えてくれる私の両親。
    (本気で向き合い、時に厳しい態度で)

  • その私の両親の愛を「実の両親の愛とはこういうものなんだな」と感じながら受け取っている夫。

両者の姿を目の当たりにしていることで、、、

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家族や親子とは、けして
「血の繋がり」だけではない
ーーーーーーーーーーーーー

それより大事なのは、

「自分はここに居ていいんだ」
と、温かく包み込んでもらえるような
心からの安らぎ、安心感。

そして、、、

「自分は、このままの自分で愛されている」
「自分は、このままの自分で大事にされている」

と心から感じられること。
尊厳欲求が満たされること。

相手に対しては、

「そのままの相手を愛する」
「そのままの相手を大事にする」

お互いがそういう心で向き合い、
時間をかけて築かれていく…

「絆のようなもの」

なのではないか?
と思うようになりました。


一つのエピソードとして、、、

「結婚したい人ができた」

夫の事を初めて両親に伝えたのは、2015年。
当時、私が看護師として派遣されていた
ウガンダで、まだ活動していた時でした。

その時の父の返答(LINE)は、

「お前は何しにウガンダへ行ったんだ!!!」。
※全く、ごもっともな怒りです。。。

母からの返事は、ありませんでした。

しばらく険悪な時期が続きましたが、
いよいよ帰国も間近に迫って来て、

「とにかく一度でいい。彼に直接
会ってから、判断してほしい」

と、LINEで土下座する思いで両親に
お願いしたところ、日本で彼と
会うことを認めてもらえたのです。


現在の状況は分かりませんが、当時、
ウガンダ人が日本へ入国するには、
観光 VISA ではダメで、

「家族や知人として招く」

方法しかありませんでした。

そのため、夫が Visa を取得して
日本へ入国できるよう、父は
その手続きに奔走してくれました。


ついに、夫が羽田空港の到着ゲートに
姿を見せた時。真っ先に夫の下へ
向かって行ったのは、私ではなく母。

そして、

「Welcome!」

と言って彼に抱き着いたのです。
これにはビックリしました。

それから2カ月の間。一緒に過ごす時間を
もちながら、私たちはお互いに対する理解を
少しずつ、でも確実に深めていきました。

思えば、、、

この曲の中で歌った夫の過去について
両親が知ったのは、結婚して5年後のこと。
実は、私自身もまったく知りませんでした。


夫が日本に滞在している間、一度だけ、

「結婚後の生活をどうするのか?」

という重大なテーマについて、
家族会議を開いたことがありました。
しかし、その時でさえ父も母も、

  • 夫は今まで何をしてきたのか?

  • 夫の家族はどういう人たちなのか?

夫に質問したことは、ありません。

ということは…?


父も母も、目の前にいる

「ありのままの夫」

を見て感じて、その夫と娘である私が
どんな未来を進もうとしているのか?

たったそれだけを判断材料にして、
私との結婚を認めてくれたのです。

そう思うと、両親の愛に対して
私も本当に感謝しかありません。

歌の中でも、夫が決意表明していますが、、、

両親から受けた「無条件」の愛を、
ウガンダの人たちのために巡らせていきたいー。

そんな想いで、夫とともに生きています。

こちらは、上で紹介した曲の動画バージョン。
写真入りのスライドショー動画を作りました。

良かったら、下の画像を
クリックして、見てみて下さいね。
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それでは、最後までお読み下さり、
(お聴き頂き)ありがとうございました。

ありがとうございます! あなたからいただいたサポートは、日本とウガンダを繋ぐようなビジネスの活動費として大切に使わせていただきます♡