鴻鵠(おおとり)@私学受験の先生

私学受験(中学・高校・大学)に携わって30年以上 進学塾→家庭教師として受験指導をして…

鴻鵠(おおとり)@私学受験の先生

私学受験(中学・高校・大学)に携わって30年以上 進学塾→家庭教師として受験指導をしています。 趣味は読書(古書集め含む)

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日面仏月面仏。碧巖録。馬祖禅師が病気になった時のことです。ご機嫌伺いに対する答えが是です。寿命1800歳の日面仏だろうと、一日一夜の短命の月面仏であろうと我が本仏の本来の面目においては平等のもの。衆生心と同じき仏心は病であろうと無かろうと同じき平常心のままであるという事です。

陰徳。善を為し人の知るを求めざるを陰徳と言う。陰隲録。人は陰徳を行えば天は必ずそれを見ていて福を降ろし、悪事をすれば凶報があるという思想で中国の明の時代の袁了凡が唱え、日本の中江藤樹、広瀬淡窓、も影響を受け、安岡正篤の著作もあります。人のやる事は全て天がお見通しなのです。

即心是仏。伝心法要。この心とは仏心のことです。感情のままに浮き沈みする喜怒哀楽のことではありません。仏心とは慈悲心や不動心のことです。心には善悪両方あるのです。心のままに生きるのは極めて危険です。人心危うく道心微かなりです。善を勧め悪を懲らす勇猛心こそ本物の仏心だと思うのです。

道不属知、不属不知。無門関。道とは如何なるものかについて南禅禅師の言葉です。知っているか知らないかという二項対立では道に生きることはできません。知性と知識では通用しないのです。結局、平常心是道で即ち、知を超越しているのです。何も知らないのでもなく知っているのでもないのです。

インテリジェンス。このような西洋的知性や知識を積み重ねても真の人間力を高めることにはならないでしょう。西洋的知性は結局、言葉と言葉のやり取りでしかないのです。真実は言葉の上にだけあるのではないのです。言葉にならない真実をどう扱うのでしょうか。東洋的叡智はここを扱うのです。

自性清浄。六祖壇経。人は外に向かって自己実現しようとすると名誉欲、権勢欲金銭欲に取り憑かれて堕落しやすいものです。食べるために仕事をするだけの人生を長く続けるといつか空しくなって自分の人生は何だったのかと悔やみがちなものです。内に向かって静寂の中で自省すると心が洗われ清浄化します

桃李不言下自成蹊。是は史記の言葉ですが、禅語として禅林句集に採用されています。桃の実やすももの果実は甘い香りがするのでいちいち宣伝しなくとも人が集まるのです徳の高い高僧や仏性輝くものの価値は説明不用で価値が風評で伝わるのです。真の価値は言葉で説明できません。でも人はわかるのです。

未だ生を知らず。焉ぞ死を知らん。論語の言葉ですが、禅語として禅林句集に採り上げられています。これは死のことなどわからないから生だけを考えておけば良いとするのではありません。それでは死の恐怖から逃れる現実逃避と採られかねません。刻一刻と死に近づく生の実体が分かっているのか問うのです

一簟の食、一瓢の飲。論語の言葉ですが、禅語として禅林句集に採用されています。食べるものも満足になく荒屋に住んでいたのに何故、顔回は楽しそうだったのか?顔回は聖人に至る道を楽しんでいたからだと近思録に書かれています。禅の道も同じです。肥えた豚であるより飢えたソクラテスであれ、です。

朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。是は論語の言葉ですが禅語として禅林句集にも採用されています。俗心を断つために修行僧は大死一番の覚悟で師に臨みます。師も慈悲心から仏性を覚醒させるため殺人刀を振いますが同時にこの刀は活人剣として弟子を覚醒させるのです。無常迅速生死事大の真剣勝負です

聖は天を冀う。近思録。聖人は人の発言や考えに左右されることはありません。天何をか言わんや、と常に天意を行動規範にしているからです。西郷隆盛の敬天思想が是です。しかし、賢は聖を冀い、士は賢を冀うのです。賢者も勇士も人を見ていて天を見てないのです。真のリーダーは天意に生きるのです。

道は知にも属せず、不知にも属せず。南泉禅師の言葉です。知に執着するのも無視するのも道ではありません。知っているかどうかが問題ではなく、何も分かってないこと放っておく怠惰でもないのが道と言うものです。知識や理解で分かろうするのでもなく向上すること続けていくのが道です。無門関より。

光陰惜しむ可し、念念無常なり。臨済録。無駄なことを考えたり余計なことをしている一瞬一瞬の間に人は老化し、気力体力精神力が衰えて死に近づきます。自分の人生は何だったのかと悩むようでは間に合わないのです。突然のアクシデントで生を絶たれる人もいます。人生に明日はない一日一生です。

菩提心。是は出家する等の仏道帰依の発心ではなく菩提の心即ち仏心や仏性のことを表すと小川隆さんは述べています。本物の実力を身に着けるには興味や好みを超えた本物の向上心が必要です。今の自分が満足する努力では実力の次元が上がりません。実力のメタ化の為にも人間心を超えた菩提心がいるのです

孟子の革命思想。昔から孟子の本を積んだ船は沈没すると言われて来ました。革命思想が日本の文化に合わなかったからです。フランス革命のような流血革命は日本人の国民性に合わないのです。真の自由と平等は生まれつき誰でも持っている仏性にあるのです。禅と法華経に真の自由と平等があるのです。

庭前柏樹子。これを以て仏教の万有神教的傾向や哲理的象徴を認める人がいるかもしれないがそれは禅ではないと鈴木大拙さんは否定します。山川草木悉く仏性有りなのだから人の本来持っている仏性と同じだと思考巡らしたら禅ではなくなるのです。庭前の柏樹子は人の仏性すら否定する絶対的無の存在です

日面仏月面仏。碧巖録。馬祖禅師が病気になった時のことです。ご機嫌伺いに対する答えが是です。寿命1800歳の日面仏だろうと、一日一夜の短命の月面仏であろうと我が本仏の本来の面目においては平等のもの。衆生心と同じき仏心は病であろうと無かろうと同じき平常心のままであるという事です。

陰徳。善を為し人の知るを求めざるを陰徳と言う。陰隲録。人は陰徳を行えば天は必ずそれを見ていて福を降ろし、悪事をすれば凶報があるという思想で中国の明の時代の袁了凡が唱え、日本の中江藤樹、広瀬淡窓、も影響を受け、安岡正篤の著作もあります。人のやる事は全て天がお見通しなのです。

即心是仏。伝心法要。この心とは仏心のことです。感情のままに浮き沈みする喜怒哀楽のことではありません。仏心とは慈悲心や不動心のことです。心には善悪両方あるのです。心のままに生きるのは極めて危険です。人心危うく道心微かなりです。善を勧め悪を懲らす勇猛心こそ本物の仏心だと思うのです。

道不属知、不属不知。無門関。道とは如何なるものかについて南禅禅師の言葉です。知っているか知らないかという二項対立では道に生きることはできません。知性と知識では通用しないのです。結局、平常心是道で即ち、知を超越しているのです。何も知らないのでもなく知っているのでもないのです。

インテリジェンス。このような西洋的知性や知識を積み重ねても真の人間力を高めることにはならないでしょう。西洋的知性は結局、言葉と言葉のやり取りでしかないのです。真実は言葉の上にだけあるのではないのです。言葉にならない真実をどう扱うのでしょうか。東洋的叡智はここを扱うのです。

自性清浄。六祖壇経。人は外に向かって自己実現しようとすると名誉欲、権勢欲金銭欲に取り憑かれて堕落しやすいものです。食べるために仕事をするだけの人生を長く続けるといつか空しくなって自分の人生は何だったのかと悔やみがちなものです。内に向かって静寂の中で自省すると心が洗われ清浄化します

桃李不言下自成蹊。是は史記の言葉ですが、禅語として禅林句集に採用されています。桃の実やすももの果実は甘い香りがするのでいちいち宣伝しなくとも人が集まるのです徳の高い高僧や仏性輝くものの価値は説明不用で価値が風評で伝わるのです。真の価値は言葉で説明できません。でも人はわかるのです。

未だ生を知らず。焉ぞ死を知らん。論語の言葉ですが、禅語として禅林句集に採り上げられています。これは死のことなどわからないから生だけを考えておけば良いとするのではありません。それでは死の恐怖から逃れる現実逃避と採られかねません。刻一刻と死に近づく生の実体が分かっているのか問うのです

一簟の食、一瓢の飲。論語の言葉ですが、禅語として禅林句集に採用されています。食べるものも満足になく荒屋に住んでいたのに何故、顔回は楽しそうだったのか?顔回は聖人に至る道を楽しんでいたからだと近思録に書かれています。禅の道も同じです。肥えた豚であるより飢えたソクラテスであれ、です。

朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。是は論語の言葉ですが禅語として禅林句集にも採用されています。俗心を断つために修行僧は大死一番の覚悟で師に臨みます。師も慈悲心から仏性を覚醒させるため殺人刀を振いますが同時にこの刀は活人剣として弟子を覚醒させるのです。無常迅速生死事大の真剣勝負です

聖は天を冀う。近思録。聖人は人の発言や考えに左右されることはありません。天何をか言わんや、と常に天意を行動規範にしているからです。西郷隆盛の敬天思想が是です。しかし、賢は聖を冀い、士は賢を冀うのです。賢者も勇士も人を見ていて天を見てないのです。真のリーダーは天意に生きるのです。

道は知にも属せず、不知にも属せず。南泉禅師の言葉です。知に執着するのも無視するのも道ではありません。知っているかどうかが問題ではなく、何も分かってないこと放っておく怠惰でもないのが道と言うものです。知識や理解で分かろうするのでもなく向上すること続けていくのが道です。無門関より。

光陰惜しむ可し、念念無常なり。臨済録。無駄なことを考えたり余計なことをしている一瞬一瞬の間に人は老化し、気力体力精神力が衰えて死に近づきます。自分の人生は何だったのかと悩むようでは間に合わないのです。突然のアクシデントで生を絶たれる人もいます。人生に明日はない一日一生です。

菩提心。是は出家する等の仏道帰依の発心ではなく菩提の心即ち仏心や仏性のことを表すと小川隆さんは述べています。本物の実力を身に着けるには興味や好みを超えた本物の向上心が必要です。今の自分が満足する努力では実力の次元が上がりません。実力のメタ化の為にも人間心を超えた菩提心がいるのです

孟子の革命思想。昔から孟子の本を積んだ船は沈没すると言われて来ました。革命思想が日本の文化に合わなかったからです。フランス革命のような流血革命は日本人の国民性に合わないのです。真の自由と平等は生まれつき誰でも持っている仏性にあるのです。禅と法華経に真の自由と平等があるのです。

庭前柏樹子。これを以て仏教の万有神教的傾向や哲理的象徴を認める人がいるかもしれないがそれは禅ではないと鈴木大拙さんは否定します。山川草木悉く仏性有りなのだから人の本来持っている仏性と同じだと思考巡らしたら禅ではなくなるのです。庭前の柏樹子は人の仏性すら否定する絶対的無の存在です