雑記52 ラスコリニコフとポルフィーリイの言葉による格闘技、プラトンの文章からも言葉の格闘術を学ぶことができる
雑記52 ラスコリニコフとポルフィーリイの言葉による格闘技、プラトンの文章からも言葉の格闘術を学ぶことができる
目安文字数 3500
■1 罪と罰を読んでいる。
ドストエフスキーの 罪と罰を読んでいる。
罪と罰の作中にて、ポルフィーリイの出てくるシーンは、自分に特に強い印象を与えるシーンが多いように感じている。
ポルフィーリイと、ロージャ(ラスコリニコフ)とが論争するシーンは、声に出して読むと = 音読すると、エネルギーに満ち溢れていて「妙な感銘」をいつも受ける。
声に出して、二人の対話を読んでいくと、強いエネルギーを自分は体の内に感じ、「妙な発達を遂げた」二つの精神が、サッカーで言うデュエル(元々 決闘を意味する。直に接触して相手に打ち勝とうとする、ボールを奪おうとする行為)を 熱心に繰り返しているという印象を受ける。
ラスコリニコフとポルフィーリイの二人は言葉によるデュエル(決闘)を何度も行う。
カバなどの動物のオス同士が、縄張りの主導権をめぐって、互いに体を盛んにぶつけ合う様子を連想する。
この二人の言葉によるデュエルは、いつも何かどぎつい雰囲気の中で行われるのだが(というか、作中のどの人物同士の会話も、どれもどぎつい雰囲気の中でなされる気がするが) こうした鍔迫り合いを数十分の時間、音読していくと、音読者の肉体にも不思議な変化を与えるものがあるように感じる。
余談: (どの人物同士の会話もどぎついが、相手へとぶつかる力の強さが互いに高く、力量が拮抗している(と自分には思われる)という度合いは、この二人による会話が一番強い気がしている。)
余談: (対ラスコリニコフにおいて、スヴィドリガイロフも力量は高いかもしれないが、自分はスヴィドリガイロフを好きになれないでいる。ポルフィーリイの方が好ましく感じている。)
■2 音読者の肉体に与える不思議な変化
(音読者の肉体に与える不思議な変化というのは)
それは、緊迫感のある問答を行わなければならない際に、圧迫感をうけて へどもどしたり、まごついたりする度合いが減るという変化である。
格闘技を稽古した人間が、そうでなかった時よりも、格闘の場面に放り込まれた際に、まごつく度合いが減るように思う。
緊迫した言葉による問答も、「言葉の格闘技」といっていいものを習得し稽古した経験があることによって、まごつかなくなり、自分のとっさの振る舞い方にも何かと力強さを感じやすくなるのではないか、と思っている。
(相手の攻撃を、捌くことができるようになり、急所への打撃を避けられるようになっていく。
相手を「ノックアウト」できるかどうかも大事かもしれないが、「ノックアウトされにくく」なり、 また、「負けにくく」なるということが自分としては より大事に感じている。)
知人と話していて、そのうちの何人かは、
「緊迫感のある会話、何か、ちゃんと筋道を立てて説明しないといけない場面に遭遇した時、プレッシャーを感じると、自分がどんどんまごついて、弱々しくなってしまう、という経験をしたことがあり、そうした場面に対して今も苦手意識がある」 と打ち明けてくれたことがある。
自分は、世の中に「言葉の格闘技」「言葉の格闘技術」といっていいような、手本となる教材があるように思っており、その手本教材を声に出して音読し、「体に言葉の格闘技術のアプリケーション、またはソフトウェア」をインストールすることができると、それがいざという時に少しでも本人を助けてくれることがあるのではないか、と思っている。
それは肉体にインストールされるものである。声を出して読むことで、頭ではなく、肉体にインストールされる。
それは、「頭で理解して利用するもの」ではなく、体に染み付かせて、無意識的にとっさに出てきてくれることを期待する、という性質のものである。
徹底された無私(平たく言うとエゴの無さ) が根底にあることが良い「言葉の格闘技術」の教材の手本で、
自分が、これが良い、と今思い浮かぶものは、
❶ドストエフスキーの罪と罰の中の、
ラスコリニコフVSポルフィーリイ
(例えば ソーニャ、ルージン、ラズーミヒンなどは、ポルフィーリイと比べて、言葉の決闘力において高くない。ポルフィーリイの言葉の決闘力は高い。)
❷プラトンの ソクラテスの登場する対話作品
(プラトンの後期作品はソクラテスが登場しないものが多いようである。)
(例えば、ソクラテスの弁明、クリトン、パイドロス、国家、饗宴、ゴルギアス、などである。)
である。
更に挙げれば、❸正宗白鳥の作品群(特に随筆。小説ではなくて。)
が ある。
自分としては、❶罪と罰 よりも❷プラトン作品 の方が、多くの人にとって音読して口当たりが良いと思う。
■3 プラトン作品の 入りやすさ、「のどさか」と「美味しさ」
最近、ある友人が自分の推薦をついに試してくれて、プラトンの作品を声に出して読んでみているところ、「本当に、心底面白いと感じている。プラトン作品を自分が読んで面白いと感じるようになるとは思っていなかった。」というコメントを頂いた。
哲学への関心を特段抱いていなくても、複雑な専門用語の満載されたページを読めなくても、プラトンの文章は、一文一文声に出して読んでみると、面白い。
(例えば、同じ「哲学」と括られるような本でも、ヘーゲルとかハイデガーの論文を音読すると多くの人は困難を感じるだろうが、プラトンの対話作品を音読した場合、その言葉の平易さや、話の進み方に、割と自然に無理なくついていける人は多いのではないだろうか、と思う。)
(おそらく ニーチェ、ベルグソン、西田幾多郎、などの論文においても困難を感じる人は一般に多いのではないか、と思うが、プラトンの対話作品はそうはならない。
「国家」のような大きな作品ですら、途中から前置きを知らずに参戦しても、声に出して読んでいくと、親しみやすい文体で、その時その時を楽しめる人は多いのではないか、と自分は勝手に思っている。
こんなことを言っていると、本格的にプラトン研究をしている方からお叱りを受けるかもしれないが、数年の間、独学で好き好んでプラトン作品を音読して楽しんできた身としては、そうした感想を勝手に抱いている。)
(プラトンの対話作品は) 面白いし、多くの作品において(ソクラテスの弁明 などを除く) ソクラテスと他の登場人物の対話は、穏やかで和やかな雰囲気の中で 一歩一歩進められていて、自分としては、絵本の「ぐりとぐら」とか「ガマくんとカエルくん」みたいな世界がこちらに与えてくる「のどかさ」とそう遠くない気がしている。
プラトンの書いたソクラテスの対話作品は、「パイドン」にしても、「パイドロス」(小林秀雄のイチオシしている作品) にしても、「国家」にしても、他の作品にしても、一般に哲学といって人々が思い浮かべるような困難な読書経験からは遠いように自分は思う。
(触れておかなくてはならないのは、自分自身、何年かプラトンの作品を好んで、隙を見ては音読して楽しんでいるが、「正当な」「正しい」理解を積み重ねているか、それはわからないこということである。もしかしたら、かなりトンチンカンな理解をしているかもしれない、という気もするのである。)
(その上で、図々しく一言すれば、これは、おいしい食べ物を食べて、「おいしい!これはおいしすぎる!」と感じて、継続的にパクパク食べて喜んでいる人間に対して、「君は本当にその食べ物について"真の理解"ができているのか?それが何と言う食べ物で、調理法について正確な理解を持てているか?どのような歴史的背景がいるか知った上で食べているのか? 云々… 」と、問うような感じに似ているようにも感じている。
)
(そうした様々な問いに「正答」できなくても、世の中から提供されている「ご馳走」を自分なりに食べて「これはおいしい!」と感じられれば、本人の血肉になっていって、良い影響があるのではないか、と自分は勝手に思っている。)
(純粋に食べて「おいしい」と喜びを感じられれば血肉になり、それについて上記のような問いを投げかけることの方が野暮だ、ということもあり得るかもしれない、などと自分は思うことがある。)
■4 ノックアウトするよりも、「負けない」「負けにくい」ための技術が良い
この「言葉の格闘技・格闘術」について、少し付け足して書くと、(重複だが)
相手を「ノックアウト」する「攻撃力や打撃力」を得ることよりも、
相手から「ノックアウト」されない、捌く「防御能力」を身につけられることが、より大事なように自分は思う。
「勝つ」ための技術も大事だが、「負けない」とか「負けにくい」という技術を身につけることが自分としては、より大事なように思っている。
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