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ハングリー人生物語(自己紹介)

宮城県登米市生まれ。
男、兄弟の末っ子(三男)に生まれる。
兄・2人が剣道をしていた影響を受け、小学2年生から剣道を始める。

🔽目次
・及川真吾の剣道時代
・就職にした理由
・宮大工の弟子時代
・一人前までの道のり


及川真吾の剣道時代

剣道での初めての試合で、同級生の倍の速さで竹刀を振り降ろし、小学3年生のデビュー戦から優勝した。
(この記憶はうっすらしかないが、とにかく負けたくなかったのは覚えているし事実だ)

その後、小学4.5.6年生のときに県大会で3連覇し、新聞に掲載された。

その他の大会でも優勝や入賞を収める。  (日々感謝)

中学時代も、さまざまな大会で優勝、入賞を収める。

未だに忘れられないのが、中学3年生の中総体。個人戦、優勝。
団体戦は、3位。(明らかに審判の判定が…。ヒイキが…。
審判がAIだったら結果は変わっただろうなと心から想う)

このときの心境は「剣道ってつまらん!大人の都合で判定しやがって!」と思った。だが、いつも私はハングリー精神だ。

これぐらいで心は折れない。

高校は小牛田農林高等学校に行き、高校1年生のとき、高校総体の団体戦で先鋒を務め優勝。

インターハイでは、予選2戦2勝。決勝トーナメント戦に入り、茨城県土浦日大に破れベスト16位国体の団体戦では次鋒を務め5位

ここまで結果を出せたのも、両親(先祖)、兄弟、先生方、近くで支えてくれた方、多くの方の支えがあったからこそ。と心底感じ、
心から感謝しています。本当にありがとうございます。

高校3年生の進路では、国士舘大学に行くか就職にするか悩んで、ひねり出した答えは「就職」だった。

就職にした理由

実家では建設業(土木)の会社をやっていた。

しかし、私が高校3年のときには経営が少し厳しいことを薄々感じていた。どうにか巻き返しはできないかと思った。

ちょうど、父の友人の紹介で「宮大工の弟子入れる可能性がある」ことを知った。私の心のなかでは「宮大工になって一人前になったら父を助けられる。力になれる。継いであげられる。」と思った。

そして、「俺は宮大工の世界でナンバーワンになる」と誓った。

(有)高橋工務店(社寺建築・一般住宅)に弟子入り。

しかし、現実はそんなあまい世界ではなかった。

宮大工の弟子時代

弟子と言っても昔のように住み込みではなく通い。

建築のことなど一つも分からない私は、怒られ、怒鳴られる。

そして今でも忘れられないことが頭の中に鮮明に残っている。
「真吾は何をやっても下手。遅い」(3ヶ月、6ヶ月、1年、2年)

あまりにも自分の出来なさに、悔しくて現場から歩いて帰った。
翌日、師匠と家族に謝った。

ここからさらに『燃えた俺のハングリー精神』

弟子に入って1ヶ月くらい経った頃から、「昼休みにカンナ、ノミ研ぎ」
家に帰ってすぐ「カンナ、ノミ研ぎ」

こんな日々を弟子時代の3年間をやり遂げた。
遊ぶ暇などなかった。

高橋工務店さんには3年5ヶ月お世話になった。(ありがとうございます)

一人前までの道のり


その後3ヶ月くらい、「大黒柱が白アリでやられてしまった家」
「古民家の土台交換・柱の根元交換の大修理」を父と共に行った。

その後、別の会社に行き7年務める。

28歳から本格的に1人で始動。
大手HMを請け負い始める。

32歳頃から、兄の#及川宗峰に相談をし始める。作戦会議が始まった。

あれから4年が経ち、少しずつ形になり現在では
「床のリフォーム専門・しあげはオマエさん」を宮城県登米市を中心に展開。既存の住宅リフォームへの不安・不満・不審感をなくす。

そして、『住』と『食』を通じて、自然と【ありがとう】が溢れる世界に!

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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いつもありがとうございます。




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