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脚を切断した先輩との思い出、とはしたくないから

「環、キャッチボールしよう」
「う、うん」
まさくんは、私にとって少し怖い先輩だった。

私は小学校の入学とともに、4つ上の兄と同じ少年野球チームに入った。兄達の代は強く、リーグ戦ではあと一勝で優勝というところまで登り詰めていた。兄がレギュラーを勝ち取っていたこともあり、私も鼻を高くしながら練習に参加していた。

兄達が6年生になった時、まさくんだけが唯一、5年生なのにレギュラーに入っていた。がっしりとした大きな体格をしていて打撃センスもある。キャッチャーとして兄達の代の中でも遜色なく活躍をしていた。

兄が卒業して私が3年生になった頃、チームは急激に弱くなった。兄達より下の代は人数が少なく、運動が得意ではない人も多かった。まさくんは痺れを切らし、ランニングや体操を終えキャッチボールをする段になると、私に近寄ってきて誘うのだった。

身長差は30センチ以上あったはずだ。体重も30キロ以上違ったはずだ。それだけ体格差があった。私から見るとかなりの巨大な先輩が、なぜか少しだけムッとしながら私をキャッチボールに誘ってきていた。正直怖かった。

キャッチボールが始まると、文字通り全身で受け止めないとボールが捕れなかった。綺麗な回転の掛かっている軟式のボールが私のグローブに収まると、パンと乾いた大きな音が鳴る。私の左手はジンジンと痛む。投げ返すとまた重く速い球が返ってくる。捕るのが精一杯なその時間はずっとずっと怖かった。

だけど何度も何度もまさくんは私をキャッチボールに誘う。
一度、父に聞いたことがある。なぜまさくんは私としかキャッチボールをしないのか。
「それはな、他の人じゃまさの球を捕れないからなんだよ」
まさくんの投げる球を他の人たちが捕れず、キャッチボールが続かないのだという。
その頃はまさくんの心中を察することなんてできなかったが、今考えるとゾッとするような話である。強いチームでバリバリと活躍していた選手が急に弱いチームに放り込まれるのだから。生き地獄のような時間だったのではないだろうか。

まさくんは新しいチームでピッチャーをやらざるを得なくなった。そしてボールを捕れるのが私しか居ないので、私がキャッチャーとなった。投球練習でも毎回、手のひらが痛くなり、捕り方を失敗すると親指の付け根が青く内出血した。まさくんは最初ツンツンしていたけど、徐々にバッテリーとして頑張っていこうと決意したのか、怖いけれどなんだか馴染みやすい先輩へと変化していった。

まさくんとは小学校が違ったので、練習のある土日に会うだけだった。普段の学校の様子は全く知らない。だけど野球を通して知ってるまさくんは、頼りになって、少し怖くて、根は優しい人だった。野球が終わった後とか休みの日とかどちらともなく誘って遊んでは、2人で野球をやってニヒヒヒと変声期前の高い声で笑っていた。

まさくんが卒業してからは会うことはなかった。私が中学に入った頃にはまさくんは高校生になった。都内でも頭の良い学校へ進み、相変わらず野球をやっているという。まさくんのことだから活躍しているんだろうなとふと考えて、すぐに自分の生活へ戻っていった。

変化があったのは東日本大震災が発生してすぐの頃だった。
私は大学の部活が休みになり、生活の大部分を占めていた部活がストップした。実家で父や母と過ごすことも増え、なんだか小学生の頃に戻ったような雰囲気だった。そんなある日、両親が出かけた先でたまたま、まさくんの両親と出会い、夕食を一緒に食べることとなった。お母さんが私に話しかける。
「ねぇ、たま。これからまさの家行くよ。さっきたまたま会ったのよ」
「え、まさくん?元気にしているかな?」
「とりあえず行くよ」

自転車に乗って15分。まさくんの家に着いた。昔遊びに行った時から綺麗になっていてリノベーションしたんだなとわかった。家の段差なども無くなっていて暮らしやすそうだなと考えていた。

部屋に入ると、まさくんは座っていた。座っていたのは車椅子だった。デカくて分厚いまさくんは、分厚さはそのままだったけど脚が切断されていた。
私は内心、「えっ」と驚いたけど、その時の驚きを、心配を、困惑を、どう伝えたらいいかわからず、その場で特にそのことに触れず「久しぶり」とだけ声をかけた。

まさくんの母親がいう。「驚いたでしょう?まさの足」。私の母が家族全員を代弁する。「驚いたよ。何があったのよ」

ご飯が始まり、お酒を飲み始めると、まさくんがぽつりぽつりと語り始めた。
まさくんは高校まで野球を頑張り、体育教師となるべく大学への進学を決めていた。受験が終わり、大好きだったバイクに乗って出かけていたという。地元の交差点で右折をしたときに対向車と衝突。バイクから咄嗟に飛び降りたと思っていたが実際にはできておらず、地面に倒れて意識が朦朧とする中で母親に電話をして「約束の時間に遅れるわ」と話したという。母親は「いつも通りちょっと遅刻するみたいなテンションだったから、その後病院から電話が来た時はなんのことかわからなかった」と驚いたそうだ。
その後、フラッシュバックなどに悩まされながら懸命にリハビリをしたという。病院に来ていた車いすバスケットボールのチームに誘われ入部し活躍をしていると教えてくれた。

まさくんが事故にあったのは、私が中学生から高校生に上がるころ。希望する高校への入学を決めて、春がキラキラと輝いていた時期だ。その頃に事故に遭い壮絶な日々を送っていたことに胸が痛くなった。そして、そうやって自分の知らないところで、かつての大切な先輩が必死に自分自身と戦っていたのだと思うと、それを知らなかったことへの罪悪感のようなものが押し寄せてきた。

まさくんの話を聞き、まさくんの両親は涙を流し、私の父も母も目を真っ赤にしてそれを聞いていた。兄も、途中から来たまさくんの兄も眉を八の字にしながらそっとまさくんを見た。だけど、まさくんはにっこりと笑っていて、今バスケをしていることの楽しさを語っていた。

帰り。なぜまさくんの家が綺麗になって、段差が取り払われているのかがしっかりとわかった。まさくんが車いすのまま玄関先まで私たち家族を送ってくれる。
その時になってようやく、私はまさくんと二人で喋る機会がきた。
「環、大きくなったね。元気にやっているか?」
「うん、元気だよ。まさくんも車いすバスケ楽しそうだね」
「楽しいよ。試合とか出ているし、かなり刺激的」
「そっか。そしたら見にいくよ」
「うん。まあまた遊びにこいよ」

まさくんの家族たちに手を振り、私たち家族は自転車に乗って家に帰った。
母が開口一番に聞く。
「環。あんた知っていたの?」
「あー、うーん」
「驚いたね」
「そうだね」
母に聞かれた時、私はまさくんが脚を切断したことについて知らなかったのに、なぜか知らなかったことをはっきりと母に言えなかった。
その時は、自分がかつてのバッテリーだった大切な先輩の情報を何も知らなかったことを恥ずかしく、情けなく感じたからだった。
好きな人、大切な人、仲間のことを何も知らないじゃないか、と。

だけど、その出来事から10年余りがたち、ようやくその時の気持ちが分かってきた。
私が母の質問に対して答えられなかった理由は、まさくんが脚を切断していたことを知らなかった自分を恥じているからではなかった。
脚を切断しようがしまいが、まさくんに会えたことが嬉しくて、何がきっかけであれもう一度仲良くなれたことが嬉しかった。
つまり、私は母の「脚を切断したこと」にだけフォーカスが当たった質問には答えたくなかったのだ

人は変わる。
その変化を受け止めたり、受け止めなかったり、指摘したり、されたり、はたまた何もしなかったり。私たちはその変化についてどう対応するのかについて、たくさんの選択肢がある。
私はまさくんに対して、脚の切断よりも関係が再燃したことに焦点を当てて生きていきたいと思う。

”脚を切断した先輩”ではなくて、”昔野球でお世話になった先輩”でもなくて、今をただ生きるまさくんと、私は向き合いたいのだ。

<環プロフィール> Twitterアカウント:@slowheights_oli
▽東京生まれ東京育ち。都立高校、私大を経て新聞社に入社。その後シェアハウスの運営会社に転職。
▽9月生まれの乙女座。しいたけ占いはチェック済。
▽身長170㌢、体重60㌔という標準オブ標準の体型。小学校で野球、中学高校大学でバレーボール。友人らに試合を見に来てもらうことが苦手だった。「獲物を捕らえるみたいな顔しているし、一人だけ動きが機敏すぎて本当に怖い」(美香談)という自覚があったから。
▽太は、私が死ぬほど尖って友達ができなかった大学時代に初めて心の底から仲良くなれた友達。一緒に人の気持ちを揺さぶる活動がしたいと思っている。
▽好きな作家は辻村深月

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