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雑考・メモ・日記

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#文学

哲学・日記・メモ「中間者・媒介者・促進者についての覚書」

哲学・日記・メモ「中間者・媒介者・促進者についての覚書」

中間者・媒介者・促進者についての覚書
中間者(あるいは媒介者・促進者)にはなりたくない。
例えば学術と現場の「乖離」を問題にしたとき、「中間者」や「媒体領域」を新設する事でその乖離に対処しようとする考え方、この考え方に私は懐疑的なのだ。「乖離がある」という問題の真の問題性は、乖離の克服なのではなく、「乖離と言う事実が在ってしまった」という点に尽きる。だから私は乖離の真ん中に「中間者」や「媒体領域」

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詩・散文「二匹のどじょう」

詩・散文「二匹のどじょう」

二匹のどじょう

二匹のどじょうが二匹のどじょうが 
右にくねくね左にくねくね 
とびあがってぴょん
そして再び水の中 

二羽のちようちょが弐羽のちょうちょが
空にのぼらずひらひらふわふわ
地にもおりずにぴたり 
菜の花にとまって菜の花になった

二人の子どもは二人の子どもは  
くるくるくるくる追いかけっこ 
どっちが追いかけてるのかわからなくなってじゃぶじゃぶ 
河を渡って二度と戻って来なか

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雑考・日記・メモ「生活・暮らし・在り方」

雑考・日記・メモ「生活・暮らし・在り方」

メモの前のメモメモ「生活・暮らし・在り方」

「生活と暮らし」と、「存在論」を分けるべきだ言うと、それは違うという人が多い。しかし存在を問うていくと、生活や暮らしを破綻させる在り方に赴いていき、暫定的にせよそれを「然り!」と答えざるを得ない時がくる。この答えはだから暫定的であるのだけれども、暫定的であってもそれは、生活と暮らしに支障をきたす。だから意識的に「生活と暮らし」と「存在論」を分ける必要が

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哲学・日記・メモ 「物語とメモと」

哲学・日記・メモ 「物語とメモと」

物語とメモと

私は昔からメモ魔で、と言っても何でも見たこと聞いた事を記しておくメモ魔ではなくて、見たこと聞いた事に対して考えた事をメモししているのだけれども・・・そんなメモ魔なようです。

しかしそうしているとメモが溜まってくる。だからたまにはそれらを見返して新たなメモを作ったりしてもいる。するとそんな感じでメモが何となく形になって、散文になったり詩になったりしてくるのだけれども、私は作品の為に

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雑考・日記・メモ「稀人について。自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?」

雑考・日記・メモ「稀人について。自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?」

稀人について。自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?

自分が住んでいる街よりも、住むことのない街により関心がいくのは何故だろうか?稀人(客人)が来訪する理由は、来訪がその土地に幸をもたらすにせよ、稀人(客人)にとってはその土地に幸をもたらそうという意図はなく、歓待を受けると言う、来訪する側の幸を動機とするのかもしれない。と思う。あくまで稀人(客人)側の動機と

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詩・散文「右手と左手」

詩・散文「右手と左手」

右手と左手

「右手」とは「左手の右側の手」であるのならば、「左手」は「右手の左側の手」であろう。
別に「手」じぁなくったっていいし「手じゃない何か」である必要もない。単に「左右の定義」として考えてみると、
「右の定義は左の右側」であるし、「左の定義は右の左側」である。とすると、この定義は真であるか偽であるか?

2021年11月1日 岡村正敏

哲学・日記・メモ 「内容と形式」

哲学・日記・メモ 「内容と形式」

その体験がまだ逐一認識を必要としているとき、それは内容であろう。それが認識を必要としなくなったとき、形式となる。しかしこの形式は体験が過去のものとなり「沈殿」して、無意識の中で形式化(構造化と言っても良いかもしれない)されたものであるから、内容は必ず形式に先立つものでなければならない。または意識され認識される内容は、常に無意識に安住する形式に先行するものでなくてはならない。            

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雑考・日記・メモ  「自然・恐ろしいもの・じねん」

雑考・日記・メモ 「自然・恐ろしいもの・じねん」

自然もじねんも考えれば考えるほど私には恐ろしい。でも好きな方は多い。自然やじねんの概念をプラグマティックに使用するのなら私も勿論大賛成ですし、大好きです。でも本当にまじめに考えるとそれはとほうもなく恐ろしい。だからあくまで私はプラグマティックに好き、と言うくらいが私自身に誠実であります。本当に好き(≒善)なんて、きっと末期の眼でしか語れないと思うから。その方が誠実。少なくとも。私にとっては。
真剣

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詩・散文 「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」

詩・散文 「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」

「鏡面の真っ平らな世界から始めよう。それは真っ平らな世界の破綻を問う事であり、真っ平らな世界の信望とは異なる」

真っ平な世界は、ただ一つの面が何処までも広がっている無言の世界なのか
真っ平らな世界は、無数の山頂が等しい高さに犇めいている多弁な世界なのか。

どちらにせよ、真っ平の世界に立った時、
私は私だけが起立している事を知るのであるが、だからと言って自分を真っ平らにしようとしてはならない。

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哲学・日記・メモ「死は平等。しかし死に方は不平等。だから私は」

哲学・日記・メモ「死は平等。しかし死に方は不平等。だから私は」

「死は平等。しかし死に方は不平等。だから私は」

死は平等だ。                            
しかし死に方は平等ではない。                       
楽な死に方もあれば苦しみ悲惨な死に方もある。              
死に方の不平等とは、死に方の、想像しうる限りでの多様性の事でもある。

ところで、社会における善悪は相対的で、善は悪にもなるし悪は

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詩・散文「岩になり砂になり水になり空になり」

詩・散文「岩になり砂になり水になり空になり」

「岩になり砂になり水になり空になり」

真っ平らでダダ広い大地に 亀裂が入りひび割れると そこには無数のゴツゴツした岩岩がひしめいていた この岩を二つの拳が叩いて砕くと 岩岩は礫になり砂になって拡がって まるでそこは海のような砂原になった やがて風が吹いて砂の粒子を巻き上げると それは空一面に舞い散って 空のような宇宙になった そうしてそこには透明な粒子が遍いていた それはもう粒子と呼べるものでも

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雑考・日記・メモ 「支配の罪(または功)があるならば誘惑の罪(または功)だって対等に扱いたい。」

雑考・日記・メモ 「支配の罪(または功)があるならば誘惑の罪(または功)だって対等に扱いたい。」

「支配」の罪に関しては多く語られるのに「誘惑」の罪について語られることが少ないのは何故か。単なる時代に因るものなのかそれとも・・・。

「支配・権力・男性性の罪」と「抱擁・誘惑・女性性の罪」を等価とする事は、反転して言えば、男性性と女性性の功を等価に肯定する事と矛盾しない筈なのだ。と思うのです。

だから私は対極主義!

哲学・日記・メモ「目の前の貴方は私の可能性の顕現である、かもしれない?」

哲学・日記・メモ「目の前の貴方は私の可能性の顕現である、かもしれない?」

目の前の貴方は私の可能性の顕現である、かもしれない?

複雑で繊細な議論をしたいとは思いません。
だから大雑把なところでの所感を述べれば、大乗仏教における菩薩道とは、目の前の貴方を含めたあらゆる魂の現前は、私の可能性の顕現である、と考える事によってしか、私はこの菩薩道を納得することは出来ません。
すべての「者=もの」を救済することが、私の解脱の必要条件であるという菩薩の祈願。「現前するあらゆる『者

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哲学・日記・メモ 「リアリズム絵画を描くという事・見るという事」

哲学・日記・メモ 「リアリズム絵画を描くという事・見るという事」

リアリズム絵画を描くという事・見るという事

●写真の様な「リンゴの絵」がある。そういう写実的な絵画制作を志向する画家の群もいるし、そういう絵画の鑑賞を愛好するコレクターも多い。では写実志向の画家と鑑賞者は、写実絵画に何を求めているのだろうか?
●リンゴがある。画家はリンゴをそっくりそのまま描きたいと思い筆をとる。そしてそっくりそのままを写し取る。しかしそれは何か違うと思う。表面的に写し取っただけ

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