『深読み 村上春樹スプートニクの恋人』プロローグ前篇
ここまでの流れ
渋谷の街角にある某カフェにて
そうか……そうだったのか……
何が「そう」なの?
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だよ。
は? 『ライ麦畑でつかまえて』のこと?
そう。J・D・サリンジャーの『THE CATCHER IN THE RYE』。
今、大変なことに気付いてしまった…
大変なこと? 何?
『ライ麦畑でつかまえて』の主人公「Holden Caulfield(ホールデン・コールフィールド)」の名前は…
「精巣・子宮」という意味になっていたんだよ…
ハァ?
英語話者が「holden」を発音すると、ドイツ語話者には「精巣」を意味するドイツ語「hoden」に聴こえる…
まさかァ。
じゃあ聴き比べてみて。
まずは英語話者が発音する「HOLDEN」から…
そして今度は、ドイツ語話者が発音する「HODEN」…
この青い三角マークを押してみて。
まあ!どっちも「ホーデン」って言ってる!
そして「caulfield」の「caul」とは「羊膜」のこと…
「caulfield」で「羊膜のある広場」という意味になるから、これは「子宮」のことだよね…
どうなってるの、これ?
『海獣の子供』と何か関係が?
僕はまだ「海獣の子供」という作品の中で、大きなことを見落としているのかもしれない…
何なの? 教えてよ岡江クン!
僕が思うに…
『海獣の子供』は『ライ麦畑でつかまえて』からインスピレーションを得て誕生した物語なのかもしれない…
つまり『海獣の子供』は、『ライ麦畑の子供』なんだよ…
海獣の子供は、ライ麦畑の子供?
うん。間違いないと思う。
ねえ深代ママ。スナックふかよみに移動しない?
そろそろ店を開ける時間でしょ?
あっ!ホントだ!もうこんな時間!
しかも外、雨降ってるじゃん!
いつの間に降り始めたんだろう…
でも地下鉄の13番出口まで、すぐだから。
じゃあ行こうか。
では、こちらがレシートになります。
本日はありがとうございました。
いえいえ。こちらこそ。桃もエビも美味しかったです。
また来まーす。
それでは、また…
お気をつけて…
電車内
しかし変な店だったわよね。料理は美味しかったけどさ。
ねえ、深代ママ。先に店に行っててくれない?
僕は一度家に帰って、『ライ麦畑でつかまえて』の本を取って来なきゃいけない。
あれって電子書籍化されていないんだよね、なぜか…
そうなんだ。わかった。じゃあ先に行って店で待ってる。
じゃあ、また後で。
スナックふかよみ
本を探してたら遅くなっちゃったな…
もう十数年も読んでいなかったから…
カランカラン♪
(ドアを開ける音)
深代ママ!遅くなってごめん!
いらっしゃい…岡江クン…
あ…お客さん…
すいません。思いっきり大声出しちゃって…
いいんです。
こちら春木さんよ。
岡江クン、初めて?会ったことなかったっけ?
うん…たぶん…
はじめまして。岡江といいます。どうぞよろしく…
こちらこそ。
花は桜木、男は春木…の春木です。
春木さんね、いつもは神宮球場のヤクルト戦帰りに来るんだけど、今日は雨で中止になっちゃったから、こんなに早い時間に来たってわけ。
いつもは10時過ぎくらいだもんね。
今日の中止発表は試合開始直前でしたから。まったく「やれやれ」って感じです。
ところで、私の飲み物まだですか?
ごめんごめん。いつものやつよね…
あっ!大変!
卵切らしてるの忘れてた!
たまご?
春木さん、いつも最初はブランディー・エッグノッグを飲むの。
身体が温まるからって。
ブランデー・エッグノッグ?
ブランデーではなくブランディー。
じゃあ深代ママ、これ使ってください。
(ビニール袋から卵のパックを出して手渡す)
すごい!ナイスタイミング!それじゃあ、お言葉に甘えて…
でもよく卵持ってたわよね?来る途中にお買い物してきたとか?
私はいつも卵と共にあります。
・・・・・
岡江クンもいかがですか?ブランディー・エッグノッグ…
あ、じゃあ僕も…
あたしの作るブランディー・エッグノッグは、すっごく美味しいんだから。
ちょっと待っててね…
うわあ、いい匂い。
はい、お待たせ!
深代の特製ブランディー・エッグノッグ!
あたしも一杯いただいちゃおっと!
うむ…この香り…
アメリカのクリスマス前後の季節を思い出します…
それでは皆さんのご多幸を祈って。乾杯!チンチン!
チンチーン。
チンチン。
ゴクゴク…
うわ!おいしい!
でしょ?
海外生活の長い春木さんも太鼓判を押すくらいなんだから。
ところで岡江クン…
君はもしや、あの熱海の事件を解決した深読み名探偵おかえもん…
はい。よくご存じで。
新聞にも出てましたよ。
容疑者として拘留された教え子を見事に救ったと…
ずいぶんと奇妙な事件だったとか…
ええ。僕の探偵人生の中でも、あんな事件は初めてでした…
でもね春木さん…
この人ったら、その教え子に手を出してたんですよ。
有り得なくない?
いや、手を出すとか、そういうのじゃなくて…
でも抱き合ってキスしたんでしょ?
教師と生徒なのに。
それは確かに…そうなんだけど…
もうサイテー。
教え子だけじゃなくて、その母親とかにも手を出してそう。
ねえ春木さん、そう思わない?
う、うむ…
だけどあの事件は、今思い返しても不思議だったな…
死体となって発見されたKという男は、死んだんじゃなくて昇天しちゃったのよね…
梶井基次郎の『Kの昇天』みたいにさ…
しかもKという名前は、実は…
ゲホッゲホッ!
どうしたの?大丈夫?
う、うむ…
ブランディー・エッグノッグのナツメグが気管に入ったようだ…
いつも深代ママは、たっぷり入れてくれるから…
ところで春木さんは、なぜ枝を咥えているんですか?
ふふふ。やっぱり気になった?
春木さんはね、『木枯し紋次郎』の大ファンなの。
木枯し紋次郎?中村敦夫の?
子供の頃から、あのドラマが大好きでね。
ねえ。いつものやつ歌ってよ!
いつものやつ?
『木枯し紋次郎』の主題歌『誰かが風の中で』よ。聴いたことあるでしょ?
春木さんの歌う『誰かが風の中で』は絶品だからね。歌声も、めっちゃ渋いんだから~
まだ一杯目でエンジンかかってないかもだけど、いいでしょ?お願い!
う、うむ…
ではギターを…
やたァ!あたし、ハモっちゃお~っと!
では行くぞ…
ああ、子供の頃テレビの再放送で聞いたことあるな…
ところで春木さん。さっき歌う前に関西弁が一瞬だけ出てましたけど、関西の方なんですか?
さすが名探偵。見逃しませんね…
生まれは京都ですが育ちは神戸です。
ふだん話すときは関西弁が全く出ないんですね。
乳母が東京の人だったもんで。
そうかあ。それでヤクルトスワローズのファンなんですね。
ねえ春木さん。今度あたしをヤクルト戦に連れてってよ。
一度、神宮の外野席で歌ってみたいんだ、東京音頭。
みんなで傘さしながら。あれって、ちょー楽しそうよね。
♪ 広い東京の~こりゃまっと ♪
ゲホッゲホッ…
それ『東京音頭』じゃないよ、深代ママ…
あっ!あたしったら『井の頭音頭』と間違えちゃった。
ほら、あたし三鷹が地元だからさ。
まったく、そそっかしいんだから。
てへ(笑)
ところでさ、本題に入ろうよ本題に。
本題?
今日ね、昼間に岡江クンと『海獣の子供』って映画を観たんですよ。
原作は五十嵐大介の有名な漫画『海獣の子供』なんだけど、春木さん知ってます?
うむ。名前だけは…聞いたことがあるかな…
そして映画を観たあとに近くのカフェで深読みをしたんです。
ちょっと変わった店だったんですけどね…
変わった店?
頼んでも無いのに料理がどんどん出てくるんですよ。
エビの包み焼きとか…
ゲホッゲホッ…
春木さん大丈夫?また何か気管に入っちゃった?
あれを…くれないか…
ちょっと口直しがしたい…
OK~。いつものやつね。
はい、どうぞ。
すまん。ゴクゴクゴク…
今度は何?
さっきとは違って、ずいぶんと早く出てきたけど。
スプトニックよ。
すぷとにっく?
スプライトのトニック割り。
春木さん、いつもこれをチェイサー代わりに飲むの。
スプライトとトニックウォーター?
どっちも同じような味じゃない?
なぜその2つを混ぜる必要が?
確かにスプライトとトニックウォーターという2つの液体はよく似ている。
見た目も味もそっくりだ。
だから君が言った通り、その2つを混ぜ合わせたスプトニックという飲み物は、ほとんど無意味な存在かもしれない。
だけど…
だけど?
一般論をいくら並べても、人はどこにも行けない。
・・・・・
君ならわかるはずだ。
君は深読み名探偵、岡江 門だろう?
・・・・・
でもさ、どっちも無色透明だから、見た目がちょっと淋しいわよね。
この赤いグレナデンシロップでも垂らしてみよっか…
ちょ…
ほら見て!きれい!
『海獣の子供』で琉花が見てた、夕日に紅く染まった海みたい!
もしくはエーゲ海の朝焼けのようなロゼワインね!
僕にはグレナデンシロップが、流された血のように見えたけど。
もう。また血の話?
今日は一日中、生理のことばかり考えてるからよ。
血?生理?
岡江クンがね、映画『海獣の子供』は14歳の少女に訪れた初潮の物語だって言うの。
「自宅待機の夏休み」は「生理休み」のことなんだって。
主人公の琉花ちゃんは幼い頃に両親が別居したのよ。お父さんは家を出て行って、いつも気怠そうなお母さんと二人暮らし。
だから琉花ちゃんは両親のことを軽蔑していたの。男女の関係になって自分を作ったくせに、責任を放棄してることが許せなかったのね。
だから自分が大人の体になっていくことが怖かった。恐れていた生理が始まって、母と同じ体になってしまうことへの不安感でパニックになり、いろんな妄想を生み出したって言うのよ。
それは…実に興味深い筋書きだ…
そしてね、急に突拍子もないことを言い出したの。
『海獣の子供』は『ライ麦畑でつかまえて』の子供なんだって…
『ライ麦畑でつかまえて』の子供?
つまり『キャッチャー』の子供というわけかね?
そうなの。
あの小説の主人公の名前は「精巣・子宮」という意味になっているんですって…
あれ?なんて名前だったっけ?
確かに英語とドイツ語の発音を聴き比べたら、その通りだったけど…
・・・・・
でもあたしには何が何やらチンプンカンプンで…
岡江クンって突拍子もないことばっかり言う人なんだけど、今回ばかりはあたしもさっぱり意味がわからない…
だから岡江クンは家に本を取りに帰って、それからここへ来たってわけ。
深読みするには、どうしても必要なんですって。
電子書籍があればスマホを見ながらで済むんですけどね。
だけど『THE CATCHER IN THE RYE』も『ライ麦畑でつかまえて』も『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も、なぜか電子化されていないんですよ。
ヘミングウェイやフィッツジェラルドの作品と並ぶ、もはや古典文学といってもいいくらいの名作なのに…
確かにそうですね。
しかしなぜ君は『海獣の子供』を考察する中で『ライ麦畑』に思い至ったのですか?
ザ・ドリフターズの『誰かさんと誰かさん』ですよ。
あの歌詞が『海獣の子供』そのものであることに気付いたんです…
え?岡江クンが昨夜あたしに歌ってくれたあの曲が?
そう。何とも奇遇としか言いようがない。
僕は偶然にも昨夜あの歌をここで歌った…
まさか次の日に観る『海獣の子供』という作品にとって、最も重要な「ソング」だとは知らずに…
・・・・・
ねえ岡江クン、もう一回あれを歌ってくれない?
あたし、ドリフのあの歌が『海獣の子供』にとって最も重要なソングだなんて、どうしても信じられないの。
あたしも子供の頃あの歌が大好きだったけどさ、あんなバカバカしくて下品な歌から『海獣の子供』みたいな美しい物語が生まれるなんてこと有り得るの?
春木さんもそう思わない?
深代ママ、そういう決めつけはよくない。
え?
一見、不真面目なようなことから、大切なものは生まれてくるのだよ。
君だって人様には見せられない御両親のセックスによって生を受けたわけだから。
深刻になることは必ずしも、真実に近づくことではない。
確かにそうだけど…
じゃあ改めてもう一度ここで歌おうか。カラオケ入れてちょうだい。
OK。はい、どうぞ。
じゃあ、なかにし礼による歌詞を注意してよく聴いてね…
確かに何か『海獣の子供』っぽいところもあったけど…
詳しく教えて、岡江クン。
うん。じゃあまず1番から…
つづく
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